ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『敗戦日本の内側』- 5 ( 傲慢、不遜、非礼な松岡外相 )

2018-02-27 21:19:22 | 徒然の記

 息詰まるような政治の動きに、胸が苦しくなります。

 328ページの本を、やっと166ページまで読み進みました。日米戦争を回避するため、近衛公が心血を注いだ行動がつぶさに書かれています。この時点での意見は、一言です。

 「日本を破滅に追いやった張本人は、松岡洋右外務大臣だった。」

 昭和天皇を初め、内閣の主要大臣、陸・海軍の大臣も含め、公のまとめた日米交渉案に賛成し、内々に米国の同意も得ているため、すべての関係者が戦争回避を予測し、祝杯気分で安堵していました。

 松岡外相だけが、独伊ソ訪問中のため不在だったので、最終決定は外相の帰国後ということになりました。

  国の存亡のかかる重大時に、政治家がどのように動いたのか。陛下はどのようにされたのか。初めて知ることばかりで、驚きと緊張でした。息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々のため、この状況を紹介しようと思います。

 松岡外相の経歴を、別途調べました。

 ・生年月日 : 明治13年  ・没年: 昭和21年(66才)   ・出生地: 山口県光市

 ・大     学 :  明治大学 オレゴン大学    ・主な経歴: 外務省官僚 満鉄総裁

  オレゴン大学留学時代の氏は、働きながら学んだ苦学生で、人種差別の辛さを味わったと言われています。氏の意見としてよく言われているのが下記で、米国人への怒りと憎しみがこもっています。

 「アメリカ人には、たとえ脅かされても自分の立場が正しい場合には、道を譲ったりしてはならない。」

 「対等な立場を欲するものは、対等な立場で望まなければならない。」

 氏の著書へ戻り、日米交渉案に関する富田氏の意見を紹介します。

  ・了解案は終戦後、幾多の文書に掲載せられ、周知のものになっているが、今ここに、私がこれを掲載するゆえんは、この案に難癖をつけた松岡外相や、この案を詳知せぬまま、ただ反米一点張りであった日本人がいかに常識外れであったかを、今一度認識してもらいたいからです。

  どのようなものが了解事項だったのか、項目だけを紹介します。

   1. 日米両国の抱懐する、国際観念並びに国家観念

   2. 欧州戦争に対する両国政府の態度

   3. 支那事変に対する両国政府の関係

   4. 太平洋における、海軍兵力及び航空並びに海運関係

   5. 両国間の通商及び金融提携 

   6. 南西太平洋方面における、両国の経済活動

   7. 太平洋の政治的安定に関する、両国政府の方針

 この了解案を得て近衛総理は、即日夜の8時から政府統帥部連絡会議を招集し、検討を要請しました。

  政府からの出席者・・首相、平沼内相、東条陸相、及川海相、大橋外務次官

  総帥部からの出席者・・杉山参謀総長、永野軍令部総長

  幹事役・・富田内閣書記官長、武藤陸軍軍務局長、岡海軍軍務局長

  ・米国の提案を議題にして、全員が緊張した協議を行ったのである。

  ・細かい議論も出たが、案全体に対しては、誰もがオーケーであったし、東条陸相も、武藤局長も、岡局長も、大変なハシャギ方の喜びであった。

  ・そこで直ぐにも、原則賛成の返電を打ったらどうか、という議が起こった。

  ・松岡外相が、独伊ソ訪問で不在であったため、二三日すれば帰国する外相の意見も一度聞いてからという首相の意見で、一同これに賛成した。

  ・昭和16年4月22日午後2時過ぎ、松岡外務大臣は、立川飛行場に降り立った。外相を乗せた飛行機は、だんだん接近して、ふんわりと着陸した。

  ・当時世界的に日の出の勢いであったヒットラーや、最近他国の外交官には、絶えて逢ったこともないと言われるスターリンと日ソ中立条約を結び、モスクワの駅頭まで、見送りを受けたという松岡外相だった。

 ここから先、松岡外相の信じられない態度が語られます。

  ・その夜8時から、政府統帥部の連絡会議が総理官邸で開かれ、早急に米国への返事を出すべく、松岡説得の会合が待っていたのである。

  ・飛行場到着以来、祝杯、乾杯を重ね、宮中でも杯を重ね、上機嫌、大得意の松岡は、ろれつも回らぬくらい酩酊してこの会議に臨んだ。

  ・皆の顔は、いかにも不快そうに見えた。さすがの公も、今はもどかしと、日米了解案のことを切り出した。

  ・陸軍や海軍が何と言っても、そんな弱いことには同意できないのである。第一、独伊に対する信義についてどう考えているのか。

  ・自分はあちらで歓迎攻めに会い、全く疲れてもいる。二週間くらい、静かに考えさせてほしい。一月くらいは、考えをまとめさせて欲しいものだ。

  ・と自分独り、言うだけのことを言って、今日は何分疲れているから、失礼しますと、さっさと帰宅してしまった。

  ・後に残された一同はポカンとして、失望するやら憤慨するやらだった。

 ヒトラーとスターリンと会談したと言う事実が、どれほど大きな出来事だったのかが窺われる叙述です。これだけの非礼を働いても、誰にも咎められない勢いを松岡氏が持っていたことになります。

  ・翌日から、松岡説得が始まった。近衛総理は、次の朝から始めて、何度も松岡に説いた。

  ・東条陸相、及川海相も、或いは、両相一緒で、或いは各々単独で、熱心に外相を口説いた。武藤、岡の陸海軍務局長も出向いた。

  ・しかし松岡氏は強硬で、あの程度の内容で自分は納得できない。外交のことは俺に任しておけ。でなければ、辞める以外はないぞという始末であった。

 驚かされるのは、松岡外相の傲慢さだけではありません。国の存亡をかけた戦争が眼前にありながら、総理以下の指導者たちがこういう状態だったのかと寒気を覚えます。

 帰国した松岡外相は、公の意見に耳を貸さず強固な反対論を述べ、返事を待つ米国を無視し、ひと月以上も待たせ、結局は、この交渉をご破算にしてしまいます。

 陸軍内の強硬派と言われていた東条陸相と武藤局長が、賛成側に立っていたのに、松岡外相が一人で異論を唱え続けました。当時の氏は華々しい戦果を挙げるドイツへ傾倒し、もてなしてくれたスターリンを賞賛し、誰の意見も聞かなくなっていました。

 なぜ近衛公に外相の首が切れなかったのかと、不思議になりますが、それほど松岡氏は、周囲の誰からも畏怖される存在であったと書かれています。たった一人の松岡外相を辞任させるため、思案の末近衛公は内閣の総辞職を決意します。

 敗戦の結果を知っているので松岡氏が憎くなるのでしょうが、当時は、明日がどうなるのか誰も見通せない時です。無責任に批判するのを止め、怒りをおさめた富田氏の意見を紹介したいと思います。

 スペースの都合で一区切りし、直ぐ続きにかかります。眠れない夜となります。

コメント (2)
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