去年の夏、 岡義武氏の著書『近衛文麿』( 昭和47年刊 岩波新書 )を、読みました。氏は公を優柔不断な政治家として語り、日本を敗戦に導いた一人と酷評していました。
富田氏は世間の悪評を修正し、むしろ立派な政治家として語ります。内閣書記官長は、現在の内閣官房長官に当たると言いますから、仕えた総理を悪し様に語るとは考えられません。
距離を置いて読もうと思うと同時に、国難の中で公を支えた氏の著書には、知らない事実があるのではないかと言う期待も湧きました。
近衛公が、軍部、政界、財界、そして庶民からも熱望され期待され、第二次内閣を作った時の状況が、田中角栄氏が総理になった時と似ています。国民が喝采し、「今太閤」、「コンピュータつきブルドーザー」、「庶民の政治家」などと、マスコミが大騒ぎし報道が加熱しました。
しかし田中氏最後はどうなったか。マスコミが「金権腐敗政治の張本人」、「政治を金まみれにした犯罪人」、「闇将軍」と悪の権化のように書き立て、政界から葬ってしまいました。
今も昔も騒げば売れるマスコミは「売るための記事」を書き、国民は記事に流されます。
第二次近衛内閣の使命は、支那事変の早期解決でした。先ず実行しなければならなかったのが、新政治体制の確立だったと氏が言います。近衛公は対立、混乱している国内の諸勢力を一本化にし、支那事変の解決を早めるという考えでした。
「対立の第一番目は、国務と統帥の対立というより、むしろ、統帥 (軍部) の、国務 (政府) に対する、干渉、専横ということであった。」
国務から統帥権を切り離してはならないと言う氏の意見は、この経験から生まれています。
「総理大臣の知らぬ間に、陸軍がどんどん支那事変を拡大しているのが、当時の実情であった。」
「近衛公は、第一次近衛内閣の苦い経験に基づいて、このことを、一番意識していたのである。軍部を抑えるためには、政府への国民の強い支持がなくてはならない。」
国民を代表すべき政党が腐敗堕落し、国民から浮き上がり、不信の底にありました。そこで公は、全国各階層の国民の組織というものを考えました。氏はここで、当時の社会にあった3つの動きにを、読者に説明します。
〈 1. 既存政党の動き 〉
・ 各政党は凋落不信の状態から抜け出すため、公を総裁として一つになろうとする動きがあった。
・ 公が新党結成を提唱すれば、党を解体し、合流しようとする情勢だった。
〈 2. 軍の動き 〉
・ 長引く支那事変が泥沼の様相となり、国民の信を失った軍は、国民を引きつけるための国民運動の必要性を痛感していた。
・ 民間の右翼組織が軍と結託し、近衛の運動を利用し親軍的な一国一党へ導こうと画策していた。
・ 政党の議員の中に親軍派議員と呼ばれるものがいて、行動を共にしていた。
〈 3. 国民一般の動き 〉
・国民大衆は声に出さないが、親軍的一国一党の動きに不信を抱いていた。
・同時に国民は、既成政党もほとんど信用していなかった。
・ 国民は、産業人も文化人も教員も、宗教家も、婦人も学生も、青年も参加する、一大国民運動を期待し、支那事変を終結に導くことを切望していた。
これが有名な「大政翼賛会」誕生前の日本の状況です。
軍は気に入らないことがあると、政府に陸軍大臣や海軍大臣を送らず、内閣を倒していました。時の政府は米内内閣で、軍の不評を買い倒閣の対象となっていて、この意味からも公の総理就任が切望されていました。
公は軍と対決する全国的組織を作る時間が欲しかったので、米内内閣の継続を望んでいましたが、熱狂した世論が許しませんでした。しかも三つの動きの内の二つは、公の考える挙国一致内閣では不要なものである以上に、敵対するものでした。