ブログを休んで、新聞、テレビ、ネットの動画や他の方のブログなどを見たり読んだりしています。難しいことですが、偏らない意見を述べるにはどうしたら良いのかと、そんな思いで情報に接しています。
せっかくの休みなので、自分のブログを閉じておきたかったのですが、そうもしておれなくなりました。以前から千葉日報に「福田村事件」の記事が掲載されていますので、スクラップ帳に貼っています。9月18日の記事もその一つですが、記者の顔写真と名前入りで大きな扱いです。
「福田村事件から100年」「デマと複合差別引き金に」「迅速で正確な報道徹底を」という見出しで、関東大震災直後の福田村で、香川県から来た行商人の男女9人が自警団に殺された事件について意見を述べています。報道部塚越氏が共同通信社の記者なのか、千葉日報の記者なのか、記事からは判断できませんが、いずれの会社に所属されているとしましても、これからお願いしたいことに変わりはありません。
氏はこの事件の原因を、「部落差別」「よそ者差別」「民族差別」の3つが複合して発生したと分析しています。表立って言われなくなったとはいえ、3つの差別意識がまだ消えていないと私たちは知っています。無くしていく努力は、今現在も続けなくてなりません。
塚越記者が善意と正義感から記事を書かれていると思いますが、お願いせずにおれません。「極論」から「極論」の意見では解決にならず、返って新しいトラブルの種を撒きますので、いつの場合でも「両論併記」の姿勢が大切ということです。
「報道機関で働く人間が忘れてはいけないことがある。それは関東大震災時に、新聞がデマの拡散に "加担" したという事実だ。」
この文章は「両論併記」になっているのでしょうか。確かに氏は、記事の前段で次のように書いています。
「当時は朝鮮人が暴動を起こすとのデマが広がり、政府が県を通じて、各地に自警団を組織するよう指示を出していた。」
だから福田村でも自警団を作り、警戒を強めていたと説明していますが、氏の記事を読みますと、朝鮮人の暴動と政府の指示が全てデマだったように聞こえます。報道した当時の新聞が、全てデマに加担する間違いを犯したと、そういう印象を与えます。
「デタラメな記事のせいで、無実の人々が何人命を落としたのだろうか。考えるだけで胸が痛くなる。」
私は氏に言いたいと思います。
「これが極論なのです。」「貴方たちの先輩が発信した記事を、すべてデタラメだとなぜ切り捨てるのでしょう。」
当時には当時の状況があったはずなのに、デタラメな記事と乱暴な断定をし、氏はそれでマスコミ人としての自分の責任が消えたと考えているのでしょうか。多くの人々が長く苦しんで来た、「差別」という重い問題に自分は無縁だと言っているように読めてしまいます。マスコミは反省しているが、国民がまだ差別意識を持ち続けていると、そのように読めます。
氏は思いやりの深い、優しい心の記者だと思いますが、書いている記事は読者の心を傷つけます。読者というより、国民と言う方が正しいかと思いますが、差別意識の存在をわが身のこととして受け止め、苦しんでいる国民に氏の気持は伝わりません。
自分たちのことは言わず、戦前の日本は全て間違いだったと報道し続ける現在のマスコミの姿勢と、どこが違うのでしょう。先輩の記者たちの記事をデタラメだったと切り捨てていますが、本当にその一言で片づけて良いのでしょうか。差別記事を書いて痛みを感じないと責めるより、警告を報道することが記者の使命と、本気で考えていた新聞人は皆無だったのか検討しないのでしょうか。
「二度と同じ過ちを繰り返さないためにも、われわれは平時から迅速で正確な報道を徹底し、読者からの信頼を重ねていく必要がある。」
終戦の日の年中行事として、貴方々が戦争の記事を書くときも「二度と同じ過ちを繰り返さないためにも、」と、似た言葉を使います。しかし差別問題は、二度や三度の出来事でなく、江戸時代、明治時代以来のものですから、この記事では無くなる方向へ進みません。迅速で正確な報道の徹底がいかに難しいものであるかも、貴方同様に国民の多くが知っています。
氏が「正確な情報」のつもりで書いていても、受け取る国民には「極論」となる場合があります。私がお願いしたいのは、「正確な情報」より、せめて「両論併記」をしてくださいと言うことです。
「追悼慰霊碑の前で気持ちを新たにし、記者も焼香と献花に参加させてもらった。」
これが記事の最後の言葉で、心から祈られる氏の姿が浮かびます。どんな気持ちで祈られていたのかは読み取れませんが、氏のことですから事件の被害者への追悼だけでなく、加害者となった村人たちへの深い理解もあったのだろうと思います。氏の意見を正しいとするなら、福田村の人々もデタラメな記事に騙された犠牲者です。
私が記事を読んで氏にお願いしたいのは、過去を全否定する極論記事では、問題の解決に繋がらないのではないかと言うことです。長い真剣な記事を書いても、一方だけへの同情や哀悼では本質に触れることにならず、新しい差別意識を掻き立てるのではないでしょうか。
「ねこ庭」を訪問される方々にお願いいたします。
「もう少し、ブログを休ませてください。」