【 1 】日本国憲法の制定過程の概観
第一段階 「マッカーサー草案」の提示まで
第二段階 「マッカーサー草案」提示後から、日本国憲法の制定まで
第三段階 日本国憲法制定
以上で上記「第一段階」が終わり、次は「第二段階」の紹介になりますが、「第一段階」の最後に書かれている説明が思っていた以上に重要なので、追加します。
・なお、総司令部が草案作成を急いだ最大の理由は、2月26日に活動を開始することが予定されていた「極東委員会」の一部に、天皇制廃止論が強かったので、それに批判的な総司令部の意向を盛り込んだ改正案を既成事実化しておくことが、必要かつ望ましいと考えたからだと言 われる。
・「極東委員会」は、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中国、インド、オランダ、カナダ、オース トラリア、ニュージーランド及びフィリピンの 11 ヵ国の代表により構成されていた。
極東委員会の一部とはソ連とオーストラリアのことで、両国は天皇制廃止を主張していました。また当時日本を憎んでいた国は、イギリスとオランダだったとのことです。
このような状況下で、なぜマッカーサー元帥は昭和天皇を守ろうとしたかについて、私たち国民は、陛下がなさった元帥との会見にあると信じています。
戦争責任を認められた陛下の言葉に感動し、元帥は昭和天皇が日本最高の紳士であると称賛したと言われています。かって「ねこ庭」の過去記事で取り上げましたが、元帥が昭和天皇を守ろうとしたのは、こう言う美談だけではなかったということでした。
「もしも連合国軍が昭和天皇に不都合なことをしたら、日本はたちまち内乱となる。」
世界最強といわれた命知らずの日本軍が、平穏裏に武装解除に応じたのは、天皇のお力にあったと知る元帥は、占領統治を成功させるためにも「陛下のご協力」が不可欠でした。
ですからここには、政治家としての元帥の決断があったと今も考えています。初めて陛下が元帥と会見されたのは昭和20年9月27日でしたが、最後の会見は、元帥がトルーマン大統領に解任され日本を離れる前日の、昭和26年4月15日に行われていました。
会見は一度だけと思っていましたが、なんと11回もお会いなされていたのです。GHQの統治下で、陛下は11回も元帥と会見をされ、ご意見を述べられていたと言うことになります。
田島宮内庁長官が、昭和天皇を外界と遮断していたとばかり思っていましたが、事実は違っていました。意外なことばかりで、びっくりします。
しかしこれ以上踏み込むとメインテーマから外れますので、政府資料の説明に戻ります。
・もっとも、草案の起草は 1週間という短期間に行われたが、総司令部では、昭和20年の段階から憲法改正の研究と準備がある程度進められており、「アメリカ政府との間で意見の交換も行われていた」との指摘もある。
「第一段階」の結びの言葉のため、日本政府とGHQとの意見交換が、どのように準備されていたかについては省略されています。
7年前の2月に、「変節した学者たち」と言うタイトルで11回のシリーズを書いたことを思い出しました。こんなところで役立つとは思っていませんでしたが、どうやら「ねこ庭」の過去記事の生きる時が来たようです。
必要と思われる部分を紹介します。
・今日は『知られざる憲法討議』という表題で講演した、我妻栄氏を紹介します。今回氏の講演により、貴重な事実を教えてもらいました。
氏の講演をわざわざ引用するのは、日本国憲法の制定過程の秘話が語られているからです。以下は講演会での氏の話です。
・終戦の翌年 ( 昭和21年 )に、当時の帝国大学総長南原繁は、学内に 憲法研究委員会を設けた。
・敗戦日本の再建のために、大日本帝國憲法を改正しなければならないことは、当時一般に信じられていただけでなく、政府はすでに改正事業に着手していた。
・多数のすぐれた学者を持つ東京帝国大学としても、これについて貢献する責務があると考えられたからであろう。発案者は南原総長であったが、学内にそうした気運がみなぎっていたことも確かであった。
・委員会が議論を始めた時、突如として政府の「憲法改正要綱」が発表された。委員会が発足してから、わずか二十日の後 ( 3月6日 ? ) である。
・そこで委員会は予定を変更し、追って発表された「内閣草案 ( 政府案 )」と取り組むこととなった。
・「憲法改正要綱」について討議決定し、第一次報告書を作成した。
・次いで ( 4月17日 ? ) 「内閣草案」について逐条審議を重ねた上で、第二次の報告書を作成し、会の任務が終わり解散した。
・報告書は南原総長に提出され、総長は、学内の有志に求められるままこれを示したが、正式に公表しなかった。
・当委員会の討議の模様については、残念ながら記憶がない。だが、かすかに残っていることが二つある。ひとつは天皇制についてで、意外にも根深い対立があることを見出したことである。
・今一つは、「憲法改正要綱 」が発表された時の、多くの委員の驚きと喜びである。ここまで改正が企てられようとは、実のところ、多くの委員は夢にも思っていなかった。
・それは委員が漠然と予想していた成果を、大きく上回っていた。
・ここまでの改正ができるのなら、われわれはこれを支持することを根本の立場として、必要な修正を加えることに全力を傾けるべきだと思った。
・当時極秘にされていたその出所について、委員は大体のことを知っていた。しかも、これを「押しつけられた不本意なもの 」と考えた者は一人もいなかった。
我妻氏は曖昧に語っていますが、委員会が「第一次報告書」の対象にした「憲法改正要綱」が「松本私案」で、「第二次報告書」の対象にした「憲法改正要綱」が「マッカーサー草案」です。
「極秘にされていた出所」とは、GHQのことです。
次回はこの事実を、政府資料の説明と併せて検討します。面倒な話が嫌いな方は、スルーしてください。