ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

憲法制定過程に関する、政府の資料 - 5

2024-08-23 22:25:07 | 徒然の記

 【 1  】日本国憲法の制定過程の概観

          第一段階   「マッカーサー草案」の提示まで

        第二段階   「マッカーサー草案」提示後から、日本国憲法の制定まで

              第三段階  日本国憲法制定

 以上で上記「第一段階」が終わり、次は「第二段階」の紹介になりますが、「第一段階」の最後に書かれている説明が思っていた以上に重要なので、追加します。

  ・なお、総司令部が草案作成を急いだ最大の理由は、2月26日に活動を開始することが予定されていた「極東委員会」の一部に、天皇制廃止論が強かったので、それに批判的な総司令部の意向を盛り込んだ改正案を既成事実化しておくことが、必要かつ望ましいと考えたからだと言 われる。

  ・「極東委員会」は、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中国、インド、オランダ、カナダ、オース トラリア、ニュージーランド及びフィリピンの 11 ヵ国の代表により構成されていた。

 極東委員会の一部とはソ連とオーストラリアのことで、両国は天皇制廃止を主張していました。また当時日本を憎んでいた国は、イギリスとオランダだったとのことです。

 このような状況下で、なぜマッカーサー元帥は昭和天皇を守ろうとしたかについて、私たち国民は、陛下がなさった元帥との会見にあると信じています。

 戦争責任を認められた陛下の言葉に感動し、元帥は昭和天皇が日本最高の紳士であると称賛したと言われています。かって「ねこ庭」の過去記事で取り上げましたが、元帥が昭和天皇を守ろうとしたのは、こう言う美談だけではなかったということでした。

 「もしも連合国軍が昭和天皇に不都合なことをしたら、日本はたちまち内乱となる。」

 世界最強といわれた命知らずの日本軍が、平穏裏に武装解除に応じたのは、天皇のお力にあったと知る元帥は、占領統治を成功させるためにも「陛下のご協力」が不可欠でした。

 ですからここには、政治家としての元帥の決断があったと今も考えています。初めて陛下が元帥と会見されたのは昭和20年9月27日でしたが、最後の会見は、元帥がトルーマン大統領に解任され日本を離れる前日の、昭和26年4月15日に行われていました。

 会見は一度だけと思っていましたが、なんと11回もお会いなされていたのです。GHQの統治下で、陛下は11回も元帥と会見をされ、ご意見を述べられていたと言うことになります。

 田島宮内庁長官が、昭和天皇を外界と遮断していたとばかり思っていましたが、事実は違っていました。意外なことばかりで、びっくりします。

 しかしこれ以上踏み込むとメインテーマから外れますので、政府資料の説明に戻ります。

  ・もっとも、草案の起草は 1週間という短期間に行われたが、総司令部では、昭和20年の段階から憲法改正の研究と準備がある程度進められており、「アメリカ政府との間で意見の交換も行われていた」との指摘もある。

 「第一段階」の結びの言葉のため、日本政府とGHQとの意見交換が、どのように準備されていたかについては省略されています。

 7年前の2月に、「変節した学者たち」と言うタイトルで11回のシリーズを書いたことを思い出しました。こんなところで役立つとは思っていませんでしたが、どうやら「ねこ庭」の過去記事の生きる時が来たようです。

 必要と思われる部分を紹介します。

  ・今日は『知られざる憲法討議』という表題で講演した、我妻栄氏を紹介します。今回氏の講演により、貴重な事実を教えてもらいました。

 氏の講演をわざわざ引用するのは、日本国憲法の制定過程の秘話が語られているからです。以下は講演会での氏の話です。

  ・終戦の翌年 ( 昭和21年 )に、当時の帝国大学総長南原繁は、学内に 憲法研究委員会を設けた。

  ・敗戦日本の再建のために、大日本帝國憲法を改正しなければならないことは、当時一般に信じられていただけでなく、政府はすでに改正事業に着手していた。

  ・多数のすぐれた学者を持つ東京帝国大学としても、これについて貢献する責務があると考えられたからであろう。発案者は南原総長であったが、学内にそうした気運がみなぎっていたことも確かであった。

  ・委員会が議論を始めた時、突如として政府の「憲法改正要綱」が発表された。委員会が発足してから、わずか二十日の後 ( 3月6日 ? ) である。

  ・そこで委員会は予定を変更し、追って発表された「内閣草案  ( 政府案 )」と取り組むこととなった。

  ・「憲法改正要綱」について討議決定し、第一次報告書を作成した。

  ・次いで ( 4月17日 ?  ) 「内閣草案」について逐条審議を重ねた上で、第二次の報告書を作成し、会の任務が終わり解散した。

  ・報告書は南原総長に提出され、総長は、学内の有志に求められるままこれを示したが、正式に公表しなかった。

  ・当委員会の討議の模様については、残念ながら記憶がない。だが、かすかに残っていることが二つある。ひとつは天皇制についてで、意外にも根深い対立があることを見出したことである。

  ・今一つは、「憲法改正要綱 」が発表された時の、多くの委員の驚きと喜びである。ここまで改正が企てられようとは、実のところ、多くの委員は夢にも思っていなかった。

  ・それは委員が漠然と予想していた成果を、大きく上回っていた。

  ・ここまでの改正ができるのなら、われわれはこれを支持することを根本の立場として、必要な修正を加えることに全力を傾けるべきだと思った。

  ・当時極秘にされていたその出所について、委員は大体のことを知っていた。しかも、これを「押しつけられた不本意なもの 」と考えた者は一人もいなかった。

 我妻氏は曖昧に語っていますが、委員会が「第一次報告書」の対象にした「憲法改正要綱」が「松本私案」で、「第二次報告書」の対象にした「憲法改正要綱」が「マッカーサー草案」です。

 「極秘にされていた出所」とは、GHQのことです。

 次回はこの事実を、政府資料の説明と併せて検討します。面倒な話が嫌いな方は、スルーしてください。

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憲法制定過程に関する、政府の資料 - 4

2024-08-23 12:58:29 | 徒然の記

 〈 4. 「マッカーサー草案」の提示 〉

   ・完成した総司令部案 ( いわゆる「マッカーサー草案」 ) は、2月13日に日本政府 に手渡された。

  ・この会談には、日本側から吉田茂外務大臣、松本烝治国務大臣等が出席したが、その席上、総司令部側から、松本委員会の提案は全面的に承認すべからざるものであり、

  ・その代わりに、最高司令官は基本的な諸原則を憲法草案として用意したので、この草案を最大限に考慮して憲法改正に努力してほしい、という説明があった。

  ・総司令部案は、国民主権を明確にし、 天皇を「象徴」としていたほか、戦争の放棄を規定、貴族院の廃止及び一院制の採用等を内容とするものであった。

  ・日本側は、突如として全く新しい草案を手渡され、それに沿った憲法改正 を強く進言されて大いに驚いた。
 
  ・そしてその内容について検討した結果、 松本案が日本の実情に適するとして総司令部に再考を求めたが、一蹴されたので、総司令部案に基づいて日本案を作成することに決定した。
 
  ・ 上述のとおり、「マッカーサー草案」が提示され、この草案を指針として日本国憲法が作成されたことについて、現行憲法は「押しつけられた」非自主的な憲法であるとの見解がある。(【参考】いわゆる「押しつけ憲法論」 ) 
 
 本文の中に「参考」や「注書」が挿入されるので読みにくいのですが、正確さと言う点ではありがたい説明です。いかにも政府の役人らしい、律儀な資料作りがされています。「押しつけ憲法論」の存在についても、取り上げられています。
 
 「ねこ庭」も政府に協力して、最後の資料編の中にある「マッカーサー草案」を紹介します。日本の戦後史と「憲法問題」に関心のある人ならびっくりする内容ですが、勉強不足の学者や評論家、政治家はおそらく知りません。「ねこ庭」の住民である私は勉強不足の仲間なのに、びっくりしています。
 
 〈 「マッカーサー草案」の主な内容 〉

   1.   国民主権と天皇について

          主権をはっきり国民に置く。天皇は「象徴」として、その役割は社交的な君主とする。

   2.  戦争放棄について

          マッカーサー三原則における、「自己の安全を保持するための手段としての戦争」をも放棄する旨の規定が削除された。

   3.   国民の権利及び義務について

      (1) 現行憲法の基本的人権がほぼ網羅されていた。

      (2) 社会権について詳細な規定を設ける考えもあったが、一般的な規定が置かれた。

   4.   国会について

   (1) 貴族院は廃止し、一院制とする。

   (2) 憲法解釈上の問題に関しては最高裁判所に絶対的な審査権を与える。

   5.  内閣について

  内閣総理大臣は国務大臣の任免権が与えられるが、内閣は全体として議会に責任を負い、不信任決議がなされた時は、辞職するか、議会を解散する。

  6.   裁判所について

  (1) 議会に三分の二の議決で、憲法上の問題の判決を再審査する権限を認める。

  (2) 執行府からの独立を保持するため、最高裁判所に完全な規則制定権を与える。

 7.   財政について

  (1) 歳出は、収納しうる歳入を超過してはならない。

  (2) 予測しない臨時支出をまかなう予備金を認める。

  (3) 宗教的活動、公の支配に属さない教育及び慈善事業に対する補助金を禁止する。

 8.   地方自治について

  首長、地方議員の直接選挙制は認めるが、日本は小さすぎるので、州権というようなものはどんな形のものも認められない。

 9.   憲法改正手続について

  反動勢力による改悪を阻止するため、10年間改正を認めないとすることが検討されたが、できる限り日本人は自己の政治制度を発展させる権利を与えられるべきものとされ、そのような規定は見送られた。

 「マッカーサー草案」を日本政府が認めなければ、昭和天皇が戦争犯罪人として処刑されると、ホイットニー民政局長が政府を脅したのは有名な話です。

 政府資料を読みますと、「押しつけ憲法論」を疑う人はいなくなります。中西教授も兵頭氏も間違っていませんが、これがやがて「日本国憲法」は日本人が自主的に作ったと、話が逆転します。

 敗戦国となった日本の混乱とご先祖の苦労が、これから語られますので、日本を愛する国民の方は次回も「ねこ庭」へ足をお運びください。

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憲法制定過程に関する、政府の資料 - 3

2024-08-23 07:17:22 | 徒然の記

 【 1  】日本国憲法の制定過程の概観

         第一段階   「マッカーサー草案」の提示まで

       第二段階   「マッカーサー草案」提示後~日本国憲法の制定まで

          第三段階  日本国憲法制定

   第一段階は下記5項目に分かれていますので、順番に紹介します。これはそのまま戦後史の復習にもなります。

     1. ポツダム宣言の受諾   2. 松本委員会の調査  3. マッカーサー三原則        4.マッカーサー草案の提示

 〈 1. ポツダム宣言の受諾 〉

  ・昭和20 ( 1945 ) 年 8月14日に受諾されたポツダム宣言は、日本の降伏の条件を定めたもので、さまざまな条項を含んでいたが、憲法制定との関係で問題となった のは10項と12項であった。

  ・深刻な問題となったのは10項で、日本の「国体」が護持されるかどうかであった。

  ・12項は、国民主権の原理を採用することを要求している、と連合国軍総司令部は解していたが、日本政府は、ポツダム宣言は国民主権主義の採用を必ずしも要求するものではなく、国体は護持できると考えてい た。

  ・したがってまた、ポツダム宣言には必ずしも明治憲法の改正の要求は含まれておらず、明治憲法を改正しなくとも、運用によって宣言の趣旨に沿う新しい政府をつくることは可能であると考えていた。

 政府はここで参考情報として、ポツダム宣言の2項目を紹介しています。( 原文は仮名書きですが、「ねこ庭」でひらがなに書き換えました。)

   10 項・・・日本国政府は、日本国国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する一 切の障碍を除去すべし。言論、宗教及思想の自由並に、基本的人権の尊重は確立せらるべし。

   12 項・・・前記諸目的が達成せられ、且日本国国民の自由に表明せる意思に従い、平和的傾向 を有し且責任ある政府が樹立せられたるに於ては、連合国の占領軍は直に日本国より撤収せらるべし

 さらに「国体」についても丁寧な説明をしていますが、ここまで平易で明確な説明を今まで読んだことがないので、勉強になりました。

  ・ここで国体とは「天皇に主権が存することを根本原理とする国家体制」及び「天皇が 統治権を総攬するという国家体制」を指す。

 〈 2. 松本委員会の調査 〉

  ・昭和20 ( 1945 ) 年10月9日、東久邇宮内閣に代わって幣原喜重郎内閣が誕生した。

  ・幣原首相は、10 月11日総司令部を訪問した際に、マッカーサー最高司令官か ら明治憲法を自由主義化する必要がある旨の示唆を受けた。

  ・同月25日、国務大 臣松本烝治を長とする憲法問題調査委員会 ( 松本委員会 ) を発足させた。

  ・松本国務大臣は、以下の四原則2に基づいて改正作業を進めた。

  政府はここでも参考情報として、「松本四原則」を紹介しています。

     ア.  天皇が統治権を総攬せられるという大原則には変更を加えない。

          イ.   議会の議決を要する事項を拡充し、天皇の大権事項を削減する。

          ウ.   国務大臣の責任を国務の全般にわたるものたらしめるとともに、国務大臣は議 会に対して責任を負うものとする。

          エ.   国民の権利・自由の保障を強化するとともに、その侵害に対する救済方法を完全なものとする。

 「松本四原則」と連合国軍総司令部 ( GHQ ) の間には大きな認識の差があり、後日問題になりますが、ここではサラッと説明しています。

  ・上記アの原則は、統治権の総攬者としての天皇の地位を温存しようとするものであり、「国体」護持の基本的立場がここに現れている。

  ・この四原則に基 づいて松本案が起草され、「憲法改正要綱」として昭和21年2月8日に総司令部に提出された。

 〈 3. マッカーサー三原則 〉

  ・昭和21 ( 1946 ) 年2月1日、松本案3が正式発表前に毎日新聞にスクープされ、それ によって松本案の概要を知った総司令部は、その保守的な内容に驚き、総司令部の側で独自の憲法草案を作成することにした。

   ・マッカーサーは2月3日、 ホイットニー民政局長に対し草案の中に次の三つの原則を入れるよう命じた。

  ・【参考】マッカーサー三原則

   ア. 天皇は、国家の元首の地位にある。皇位の継承は、世襲である。天皇の義務および権能は、憲法に基づき行使され、憲法の定めるところにより、 人民の基本的意思に対し責任を負う。

    イ.   国家の主権的権利としての戦争を廃棄する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、および自己の安全を保持するための手段としてのそれをも放棄する。 日本はその防衛と保護を、いまや世界を動かしつつある崇高な理想にゆだねる。

     いかなる日本陸海空軍も決して許されないし、いかなる交戦者の権利も日本軍には決して与えられない。

   ウ.  日本の封建制度は、廃止される。 皇族を除き華族の権利は、現在生存する者一代以上に及ばない。華族の授与は、爾後どのような国民的または公民的な政治権力を含むものではない。予算の型は、英国制度にならうこと。

  ・ホイットニーは翌 4 日、ケーディス民政局次長等民政局員を招集し、マッ カーサー三原則を伝え、総司令部案作成に取りかかった。

 この辺りの状況については、戦後史に興味のある方は知っていると思いますが、復習のつもりで読んでいただければと思います。(「マッカーサー三原則」の具体的な内容を初めて知り、ここまで踏み込んでいたことに驚きました。)

 スペースがなくなりましたので、続きは次回にします。

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