日露戦争後のアジア情勢について、洞氏が説明しています。
「日本が日清・日露戦争に勝利したことは、欧米列強にとって驚異の的であった。」「しかしその日本が、南満州を勢力下に収めようという野望をあらわにすると、」「彼らは日本に対し、警戒の色を見せ始めた。」「欧米列強は、そこに恐るべき競争相手を見出したのである。」
日本について語り始めると、氏はドイツの時のように拡張政策を肯定せず、やはり批判的なトーンになります。
「アメリカはドルの力で、満州市場の制覇を図ったが、」「これは日本に拒否された。」「次にアメリカ、イギリス、フランス、ドイツの4国は、満州の工業開発のため共同で借款団を作り、」「清国政府に借款の提供を申し入れたが、これまた日本が、」「ロシアと手を結んで、潰してしまった。」
「ロシアは欧州でドイツと対抗していたため、アジアのライバルだった日本と、「妥協政策を取ったのである。」「ロシアの巻き返しを恐れていた日本は、喜んでロシアと協調し、」「日露協約を結び、満州と蒙古に境界線を引き、勢力を分け合っていた。」
日露戦争の時は、米英の後ろ盾でロシアと戦争をしたのに、ここではもう、敵だったロシアと手を取り合い、米英独仏と対立しています。自分の国の利益のためなら、敵と味方が簡単に入れ替わります。「一寸先が闇」というのは、日本の政界だけの話でなく、国際社会がそうなのです。
ソ連が崩壊し冷戦が終わった令和の現在では、アメリカや日本の支援で大国となった中国が、今度は新しい「米中冷戦」の主役となっています。ドイツもフランスも、中国に肩入れしたり、米国に近づいたりし、プーチンのロシアは様子を伺っています。
今も昔も国際社会は、経済力と武力を全面に出し、変わらない対立を繰り返しています。それなのに洞氏は、日本の行動だけを特別視し、変わらず批判し続けます。今回からのテーマは、「辛亥革命」ですが、41ページの書き出し部分を紹介します。
「日露戦争前、言うなれば19世紀の中国に起こった、」「いくつかの封建制打倒の闘争、蜂起は、その規模とエネルギーの逞しさを示しながらも、」「ついに勝利することはなかった。」
「太平天国の乱をはじめ、どの戦いも、列強の強烈な干渉のもとに、」「或いは清国の露骨な弾圧の前に、潰えた。」「しかし、歴史の中に芽生えた民族解放の動きは、」「20世紀に入ると、必然的にその突破口を見出し、噴出せずにはやまない。」
反日左翼学者は、マルクス主義と革命騒ぎが大好きですから、最初から中国革命勢力の味方です。氏はまず、孫文の言葉を紹介します。
「日本の勝利は、数百年間欧州人の支配下にあったアジア民族の、」「欧州人に対する、最初の勝利だったのであります。」「日本の勝利は、全アジアに影響を及ぼし、」「アジアの全民衆は歓喜し、そして、極めて大なる希望を抱くに至ったのであります。」
孫文がいくら日本を称賛しても、洞氏は関心がありませんので、別の話題に移ります。当時生まれていた、3つの中国の革命団体についての説明です。私の知らない事実なので、学徒として素直に読みました。
1. 「興中会」
・孫文を中心とし、祖国の危機を救うため、異民族である清朝の打倒を目指す。
2. 「光復会」
・江蘇・浙江地方の代表組織で、「反満復漢」をスローガンとする。
3. 「華興会」
・構成員は留日学生が多く、資本主義経済発展の要求を掲げ、湖南地方を基盤とした。
氏の説明によりますと、3団体は明確な綱領を持たず、組織もしっかりしていない上、地方色が強かったため、全国的な革命運動への指導力がなかったと言います。次いで氏は、やがて「中国建国の父」と言われるようになった、孫文の略歴を紹介しています。
〈 孫文の略歴 〉
・広東省の農家に生まれ、香港で医術を学び、広東で開業医となった。
・太平天国の乱で影響を受け、当時交わった秘密結社の人々から感化を受けた。
・日清戦争時はハワイにいて、「興中会」を組織し、広州での武装蜂起を計画した。
・武器の密輸入が発見され、明治28 ( 1895 ) 年、同志と共に香港へ逃れ、横浜を経てハワイへ戻った。
・清朝政府は孫文を執拗に追い詰め、ついにロンドンへ逃げた。かって香港の医学校での師だった人物を訪ねようと、ホテルを出たところで、清国の役人に捕まった。
・逮捕された彼は銃殺刑になるはずだったが、恩師カントリーが、孫文がキリスト教徒であるため、中国皇帝に迫害を受けていると英国外務大臣に事情を訴えた。
・早速イギリス外務省から、強硬な抗議が出され、明治29 ( 1896 ) 年釈放された。
・この時孫文は見聞を広め、辛亥革命の指導理念となった「三民主義の理論」を形作った。
・明治31 ( 1898 ) 年孫文は、ヨーロッパから日本へと渡り、横浜で借家住まいをしているかっての同志と再会した。
・ここで孫文は、後年奇しき因縁で結ばれる宮崎滔天 ( とうてん ) と邂逅した。
少し長くなりすぎた感がありますが、宮崎滔天とのつながりを説明するため、頑張りました。次回は彼を中心に、孫文を支援した日本人たちについて説明しようと思います。それは戦後の歴史教育が教えない、もう一つの歴史であり、日中関係です。