ねこ庭の独り言

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『第一次世界大戦』 - 4 ( 孫文と宮崎滔天 )

2021-10-07 16:44:50 | 徒然の記

 日露戦争後のアジア情勢について、洞氏が説明しています。

 「日本が日清・日露戦争に勝利したことは、欧米列強にとって驚異の的であった。」「しかしその日本が、南満州を勢力下に収めようという野望をあらわにすると、」「彼らは日本に対し、警戒の色を見せ始めた。」「欧米列強は、そこに恐るべき競争相手を見出したのである。」

 日本について語り始めると、氏はドイツの時のように拡張政策を肯定せず、やはり批判的なトーンになります。

 「アメリカはドルの力で、満州市場の制覇を図ったが、」「これは日本に拒否された。」「次にアメリカ、イギリス、フランス、ドイツの4国は、満州の工業開発のため共同で借款団を作り、」「清国政府に借款の提供を申し入れたが、これまた日本が、」「ロシアと手を結んで、潰してしまった。」

 「ロシアは欧州でドイツと対抗していたため、アジアのライバルだった日本と、「妥協政策を取ったのである。」「ロシアの巻き返しを恐れていた日本は、喜んでロシアと協調し、」「日露協約を結び、満州と蒙古に境界線を引き、勢力を分け合っていた。」

 日露戦争の時は、米英の後ろ盾でロシアと戦争をしたのに、ここではもう、敵だったロシアと手を取り合い、米英独仏と対立しています。自分の国の利益のためなら、敵と味方が簡単に入れ替わります。「一寸先が闇」というのは、日本の政界だけの話でなく、国際社会がそうなのです。

 ソ連が崩壊し冷戦が終わった令和の現在では、アメリカや日本の支援で大国となった中国が、今度は新しい「米中冷戦」の主役となっています。ドイツもフランスも、中国に肩入れしたり、米国に近づいたりし、プーチンのロシアは様子を伺っています。

 今も昔も国際社会は、経済力と武力を全面に出し、変わらない対立を繰り返しています。それなのに洞氏は、日本の行動だけを特別視し、変わらず批判し続けます。今回からのテーマは、「辛亥革命」ですが、41ページの書き出し部分を紹介します。

 「日露戦争前、言うなれば19世紀の中国に起こった、」「いくつかの封建制打倒の闘争、蜂起は、その規模とエネルギーの逞しさを示しながらも、」「ついに勝利することはなかった。」

 「太平天国の乱をはじめ、どの戦いも、列強の強烈な干渉のもとに、」「或いは清国の露骨な弾圧の前に、潰えた。」「しかし、歴史の中に芽生えた民族解放の動きは、」「20世紀に入ると、必然的にその突破口を見出し、噴出せずにはやまない。」

 反日左翼学者は、マルクス主義と革命騒ぎが大好きですから、最初から中国革命勢力の味方です。氏はまず、孫文の言葉を紹介します。

 「日本の勝利は、数百年間欧州人の支配下にあったアジア民族の、」「欧州人に対する、最初の勝利だったのであります。」「日本の勝利は、全アジアに影響を及ぼし、」「アジアの全民衆は歓喜し、そして、極めて大なる希望を抱くに至ったのであります。」

 孫文がいくら日本を称賛しても、洞氏は関心がありませんので、別の話題に移ります。当時生まれていた、3つの中国の革命団体についての説明です。私の知らない事実なので、学徒として素直に読みました。

 1. 「興中会」

  ・孫文を中心とし、祖国の危機を救うため、異民族である清朝の打倒を目指す。

 2.  「光復会」

  ・江蘇・浙江地方の代表組織で、「反満復漢」をスローガンとする。

 3.  「華興会」

  ・構成員は留日学生が多く、資本主義経済発展の要求を掲げ、湖南地方を基盤とした。

 氏の説明によりますと、3団体は明確な綱領を持たず、組織もしっかりしていない上、地方色が強かったため、全国的な革命運動への指導力がなかったと言います。次いで氏は、やがて「中国建国の父」と言われるようになった、孫文の略歴を紹介しています。

  〈 孫文の略歴 〉

  ・広東省の農家に生まれ、香港で医術を学び、広東で開業医となった。

  ・太平天国の乱で影響を受け、当時交わった秘密結社の人々から感化を受けた。

  ・日清戦争時はハワイにいて、「興中会」を組織し、広州での武装蜂起を計画した。

  ・武器の密輸入が発見され、明治28 ( 1895 ) 年、同志と共に香港へ逃れ、横浜を経てハワイへ戻った。

  ・清朝政府は孫文を執拗に追い詰め、ついにロンドンへ逃げた。かって香港の医学校での師だった人物を訪ねようと、ホテルを出たところで、清国の役人に捕まった。

  ・逮捕された彼は銃殺刑になるはずだったが、恩師カントリーが、孫文がキリスト教徒であるため、中国皇帝に迫害を受けていると英国外務大臣に事情を訴えた。

  ・早速イギリス外務省から、強硬な抗議が出され、明治29 ( 1896 ) 年釈放された。

  ・この時孫文は見聞を広め、辛亥革命の指導理念となった「三民主義の理論」を形作った。

  ・明治31 ( 1898 ) 年孫文は、ヨーロッパから日本へと渡り、横浜で借家住まいをしているかっての同志と再会した。

  ・ここで孫文は、後年奇しき因縁で結ばれる宮崎滔天 ( とうてん ) と邂逅した。

 少し長くなりすぎた感がありますが、宮崎滔天とのつながりを説明するため、頑張りました。次回は彼を中心に、孫文を支援した日本人たちについて説明しようと思います。それは戦後の歴史教育が教えない、もう一つの歴史であり、日中関係です。

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