4月20日の千葉日報のコラムを読み、「千葉日報にも、馬鹿なコラム」というタイトルで、批判をしました。
あの時の内容は、セクハラ問題でしたが、本日の内容は、敗戦の日を前にした、過去の戦争批判です。「忙人寸語」とは、おそらく、朝日新聞で言えば、「天声人語」に相当するコラムだろうと思います。天声人語は、論説委員の一人が三年とか、四年とか、一定期間、専任の天声人語子として、担っていたと聞きます。
だとすれば、「忙人寸語」も、千葉日報の幹部記者が、一定期間を担当し、書いているものと思われます。天声人語は、朝日新聞の説明によりますと、「天に声あり、人をして語らしむ」という中国の古典に由来し、「民の声、庶民の声こそ天の声」という意味だと言います。
反日・左翼の論説委員の書いた意見が、果たして民の声、庶民の声であったのか、今となっては疑問です。まして、天の声など、おこがましい限りでした。ペテン師吉田清治の話を10回も取り上げ、日本政府と国民へ警鐘乱打し、説教までしましたが、捏造が判明した後、このことを書いた天声人語は、すべて取消されました。
それでも「天声人語」という言葉そのものは、中国の古典とやらにあるらしく、意味も説明されています。一方、「忙人寸語」は、千葉日報社の造語なのか、普通の辞書には載っていません。多忙な人間が、寸鉄人を刺す言葉で、世評を語るという意味なのだろうかと、なんとなく分かりますが、どれを読んでも、心に刺さる主張はありません。
千葉日報の社名を高めるというより、評価を低下させる内容が多いのですから、この際担当記者が交代するか、いっそのこと別のコラムに変更するか、読者である私は提案いたします。ここでまず、当日の「忙人寸語」を、引用いたしましょう。
「戦争の悲惨さや、残酷さは、」「時代を超えて、芸術家の、主要なテーマとなってきた。」「惨状を後世に伝え、あるいは、」「人間の愚かさを、訴えかけながら・・」
こうして、故人となった、版画家の死を悼みます。故人の経歴と業績を偲びながら、戦争の愚かしさが、強調されます。それだけでも、いい加減うんざりしますが、遂には、紋切り型の戦争否定となります。
「沖縄戦から、広島、長崎への原爆投下、」「そして無条件降伏へ。」「終戦の道を辿る、平成最後の夏が来る。」「まっしぐらに戦争に突き進み、」「破滅へと駆り立てられていった時代。」
「二度と繰り返したくないが、不穏な空気が気になる。」「昭和が遠ざかり、戦争体験者が少なくなっていく。」
戦後73年間も、こんな繰り返しをしているマスコミ業界に対し、コラムの担当者は何の疑問も抱かないのでしょうか。先の大戦につきましては、今となっては色々な事実が明らかになり、日本の指導者だけが間違っていたとは、言えなくなっています。まっしぐらに戦争へ突き進み、国民を破滅に導いたとは、断定できない国際情勢も、知られるようになっています。
それなのに、いつまでも、自分の国の指導者だけを非難する口調が、どうして改められないのでしょう。私は、過去の日本が正しかったと、言っているのではありません。戦争を賛美しているのでも、賛成しているのでもありません。
この調子では、私の愛する千葉日報社も、8月15日が来れば、「終戦記念日特集」で紙面を飾り、マスコミの夏祭りで大騒ぎすることでしょう。この記事を書いている、千葉日報社の幹部記者の方に、私は一冊の本をお勧めします。
笹本俊次氏著「第二次大戦下のヨーロッパ」(昭和45年刊 岩波新書)
これを読みますと、ヒットラーとスターリンが激しく応酬し、チャーチルやドゴールがどのように動いていたか。松岡外相やモロトフや、近衛文麿の名前も出てきます。日本など、彼らの頭の中には、コレッポチもなく、自国の領土拡大と、利益を求め、武力を行使する政治家としての姿が、赤裸に描かれています。
一読するだけで、日本のマスコミがやっている、敗戦の日のお祭り騒ぎの愚かしさが分かります。本の裏扉にある略歴を見ますと、笹本氏は、朝日新聞、東京新聞の特派員として、戦地を転々としています。ですから著者は、マスコミが嫌悪する保守・右翼の人間でなく、正真正銘のマスコミ側の人間です。
「二度と繰り返したくないが、不穏な空気が気になる。」「昭和が遠ざかり、戦争体験者が少なくなっていく。」
本を読めば、このような寝言を新聞に掲載した自分が、きっと恥ずかしくなります。この言葉をそのまま読めば、戦争経験者はすべて、単純な戦争反対論者だとでも言わんばかりです。同じく戦争に反対しても、貴方がたのように、日本の指導者たちを悪者にし、自分だけは正しいと、他人事みたいに語る人間だけではありませんよ。
反省するときには、過去の人間を批判・攻撃するだけでなく、自分のことも加えなくてなりません。こんなことばかり繰り返して恥じない、千葉日報の幹部社員の方に、私は、苦言を呈します。
ご存知とは思いますが、戦争を賛美し、戦争遂行の先頭に立ったのは、ほかならぬ新聞や映画ニュースやラジオだったではありませんか。戦時中、朝日新聞の「天声人語」は、「神風賦」と名前を変えていたことを、ご存知ですか。神風とは、特攻隊の名前にも使用された、勝利の風です。朝日新聞は、敗戦後に、再びこれを、「天声人語」に戻しました。
多少の理性と良識があるのなら、他人事のように戦争を反省して見せるのでなく、貴方がたマスコミ幹部は、国民に対し、謙虚に詫びるのが先でしょう。
「私たちは、不本意にも、軍部の弾圧に負け、戦争遂行の記事を書き、」「国民の意識を戦争に駆り立て、大きな間違いをいたしました。」
「軍人や政治家や、これに賛成した国民の方々ばかりを責めるのでなく、」「私たちも、心から反省し、過去を悔いております。」
この言葉が先にあれば、国民の多くも、貴方がたの主張に耳を傾けるはずです。自分だけは雲の上から社会を眺め、第三者みたいに綺麗事を語るのでは、相手にされなくなるはずです。しかし本音を言いますと、私の意見は、千葉日報社には、無理難題でしかないと、自覚しております。全国紙と地方紙の大きさを比べますと、はっきり言いまして「象と蟻」の違いがあります。
象の全国紙でもやらないことが、蟻の地方紙にやれるはずがありません。それではきっと、経営もうまくいかなくなるのでしょう。しかし、千葉日報の経営陣の方々に、私は申し上げたいと思います。
「千葉日報の読者は、お花畑の人間ばかりではありませんよ。」「朝日や毎日の、地方版みたいな記事なら、購読する意味があるのでしょうか。」
でも、地方新聞には、かなり偏った新聞が多いことはよく聞きます。(おそらく、均衡のとれた情報力が欠如しているからでしょう)
しかし、それにしても夏の季節になると、毎年、性懲りもなく『戦争の反省』の標語ばかりで鬱陶しいとしか言いようがありません。太平洋戦争(大東亜戦争)は、何十年前の事だと思ってるんでしょうか?
昔、1970年頃『戦争を知らない子どもたち』という歌が流行っていたそうですね。(ちなみに言いますと、あの歌は、必ずしも「反戦歌」ではないらしいです)
しかし、今の若者は、その『戦争を知らない子どもたち』の子供か孫の世代です。
それなのに、いつまで、『戦争の反省』とか『誤った戦争の謝罪』とか『過ちは繰り返しません』とかを言わせるんでしょうか!
、、、はっきり言いますと。。。。。
☆『戦争を知らない子どもたち』は、戦争の反省をする必要はありません。
☆『戦争を知らない子どもたち』は、「戦争の謝罪」をさせられる言われはありません。
☆『戦争を知らない子どもたち』は、「戦争のあやまちを繰り返しません」とかの誓いを読む義務はありません。
戦争を知らない子どもたちに、戦争責任の負い目を負わせるのは、次世代の若者を愛する行為ではありません。!
私は、学校時代に、上記の事を言ったところ、先生からこっぴどく叱られました。
でも、私は、納得できなかったので、何度も、先生に言い返しました。
「君は、戦争の犠牲者の事を何と思っているのか?!自分たちは戦争と関係はない、という言い草は何だ!!」と先生に叱責されましたが、
私は、それに対して、
「私は、もちろん戦争中、祖国の為に生命を捧げられたかたのことは痛ましく思います。でも、戦争の犠牲者を供養するなら、『英霊鎮魂歌・海行かば』を戦没者の霊前で歌うべきでしょう。戦没者を慰霊するなら『その時代のコトバ』で祈らなければダメでしょう。『あの戦争は間違った戦争だったという言い草』こそ戦没者を侮辱することではないでしょうか」
と言いますと、先生は私のほうを気味悪そうに睨みながら絶句しました。(苦笑)
まあ、私は当時、チアガ-ルをして『キャアキャア』言ってましたから、その私が、ああいう事を言ったので先生も面食らったんでしょうね。(微笑)全然イメージ違いですから、、、、、
◎『追記』
あの大東亜戦争から、なんらかの『教訓』を引き出すとしたら、
それは【日本の国土を戦場にしてはならない】ということでしょう。
言い換えれば、
【日本の領土、領海、領空に、敵軍を侵入させてはならない!】と言うことでしょう。
平和を守るとは、そういうことではありませんか?
日教組の先生がたが、「犠牲者」といわれる時、そこに日本人は含まれていません。日本軍のために死んだ、韓国・朝鮮、中国人のことを、犠牲者と呼んでいます。
日教組の指導では、日本の軍人は全て加害者であり、犯罪者扱いです。先生は、貴方の反論を聞き、さぞ驚かれたことでしょう。思ってもいない女生徒が、思ってもいない方向から、反論するのですから、呆然とされたのでしょう。
生徒だった頃の私は、内心で先生に反発し、軽蔑しても、反論するという気持ちはありませんでした。私にしても、びっくりする貴方の答えです。
ちなみに、共同通信社が、記事を配信している地方紙のデータを、紹介いたします。地方紙の記事の80%は、共同通信社の記事です。テレビの番組欄から、社説までと言います。これも驚きですが、終戦の特集記事が、全国一律になるのは、巨象の通信社の力もあるのです。
字数が多いので、データは、別コメントで送ります。
データを、紹介いたします。
北海道新聞 室蘭民報 河北新報 東奥日報 デーリー東北
秋田魁新報 山形新聞 岩手日報 福島民友新聞 ジャパンタイムズ
東京新聞 下野新聞 茨城新聞 上毛新聞 千葉日報
神奈川新聞 埼玉新聞 山梨日日新聞 信濃毎日新聞 新潟日報
中日新聞 中部経済新聞 伊勢新聞 静岡新聞 岐阜新聞
北日本新聞 北國新聞 福井新聞 富山新聞 北陸中日新聞
日刊県民福井 京都新聞 神戸新聞 奈良新聞 大阪日日新聞
山陽新聞 中国新聞 日本海新聞 四国新聞 愛媛新聞
徳島新聞 高知新聞 西日本新聞 大分合同新聞 宮崎日日新聞
長崎新聞 佐賀新聞 熊本日日新聞 南日本新聞 沖縄タイムズ
琉球新報 スポーツ日本新聞東京 スポーツ日本新聞大阪
報知新聞 日刊スポーツ新聞東京 日刊スポーツ新聞大阪
ディリースポーツ 47NEWS
このように管理人様が時折千葉日報の記事を取り上げてくれるので、県外のない私には大助かりです。
『忙人寸語』で検索してみると、引っかかるのは千葉日報の公式サイトが多く、たまにその記事を取り上げる個人のブログがヒットします。
それにしても、「戦争の悲惨さや、残酷さは」「惨状を後世に伝え」「人間の愚かさを、訴えかけながら」は、朝日をはじめとする各紙の「常套手段」です。
「二度と繰り返したくないが、不穏な空気が気になる。」「昭和が遠ざかり、戦争体験者が少なくなっていく。」とも嘆いていますが、「不穏な空気」「戦争体験者が少なくなっていく」と言うあたりにも、書き手の「主観」が込められていると思います。
「不穏な空気」とは、安倍自民のせいで「右」に傾いているとでも言いたいのでしょう。
先日このブログに表れた、ある方のようです。
あと何日かすれば、朝日やNHKをはじめ各マスコミが、「戦争の悲惨さや、残酷さ」や「愚かしさ」を強調し、「二度と繰り返したくない」と繰り返す「季節」がやって来ます。
毎年の「年中行事」ですが、この『忙人寸語』はその「序章」のようにも感じます。
同じgooブログのあるブログで、ねこ庭様のコメントを拝見しました。
そのブログの管理人氏が、レスとして「受信料の一部を退職者の年金に流用しているようで、厚生年金の他に、企業年金として月に25万円も貰っている」と語っていました。
これが本当だとしたら、正に「ボロ儲け」であり「笑いが止まらない」と思います。
先日のある方が、「国民の年金資金を使って60兆も株を上げている」などと放言していましたが、「国民からの受信料を使って社員らの年金を上げている」ことについてはスルーなのでしょうか(笑)
とにかくこの方の言っていること全てが朝日やNHKが垂れ流してきたことそのままであり、その受け売りのように感じました。
この方に限らず、朝日やNHKの言っていることをそのまま信じてしまっている人は多いと思います。
こうして見ると、千葉日報が「ミニ朝日化」する余地は十分にあると感じますが、スタッフらの良心によって、千葉日報の「良心」を貫いていただきたいと思います。
比較して読むと、新聞もブログも、面白いですね。千葉日報社には、いろいろ文句を言っていますが、私は好きです。まさしく、象と蟻のマスコミ界で、頑張っていると思います。
他県の人には見えませんが、共同通信社の記事より、自社記事の比率を高めようと、千葉県のニュースを懸命に掲載しています。スタッフの良心が、経営という厳しい現実にどこまで対応できるかが、鍵でしょう。
マスメディアの大量生産を目指さず、小さくとも、支える読者がある程度確保できれば、キラリと光る地方紙であり続けられるのではないでしょうか。千葉日報が変化すれば、日本が変化すると、そんな、リトマス紙の役目があるような気がしてなりません。
安倍氏の浪費をいう前に、NHKの浪費は、なんとかしなくてなりませんね。国民の受信料で、電波貴族どもが、我が世の春をを謳歌し、やりたい放題です。
政治家は右も左も、おこぼれにあずかっているのでしょうか。国会で質問すら、致しません。亡くなった三宅博氏が、鋭く追及しておられましたが、義を貫く野武士みたいな方でしたから、口先ばかりの議員たちには、とても真似ができません。
残念なことです。