今回は、山田宏議員の国会での説明の続きです。
3月16日 和田政宗氏
3月18日 杉田水脈氏
3月20日 青山繁晴氏
5月13日 和田政宗氏
5月17日 山田宏氏
次回は、NHKの会長の回答を中心に紹介します。
( 令和5年1月22日17時20分、safariが侵入を阻止したトラッカーが99件 20時25分、115件。1月23日07時40分、123件。)
今回は、山田宏議員の国会での説明の続きです。
3月16日 和田政宗氏
3月18日 杉田水脈氏
3月20日 青山繁晴氏
5月13日 和田政宗氏
5月17日 山田宏氏
次回は、NHKの会長の回答を中心に紹介します。
( 令和5年1月22日17時20分、safariが侵入を阻止したトラッカーが99件 20時25分、115件。1月23日07時40分、123件。)
「護る会」所属の山田宏議員が、自分の動画をユーチューブで公開していることを初めて知りました。青山氏の動画『ぼくらの国会』は視聴者が10~25万人ですが、山田氏の動画はあまり知られていないらしく1~5万人台の視聴者です。
NHKドキュメント『緑なき島』の件を調べていて、偶然氏の動画を発見しました。令和3年5月17日の参議院決算委員会でのNHKとのやりとりを、公開していました。
「NHK『緑なき島』坑内映像捏造疑惑、山田宏氏の質問で一歩前進」
長いタイトルがついていましたが、私の疑問を解いてくれる動画でした。
問題になっている『緑なき島』のドキュメント番組は、昭和30年11月17日にNHKが放送したものです。今から68年前の放映ですから、私が小学校の5年生だった頃の番組になります。
「なぜこんな昔のドキュメント番組が、今頃になって急に問題視されるのか。」
昨日( 1月19日 )に観たのは、青山繁晴氏の『ぼくらの国会( 第451回 )』( R4.12.13付 )でした。内容は「護る会」が主催した「軍艦島勉強会」で、タイトルが「NHKと韓国から日本の尊厳を護る」と付いていました。
番組を最後まで観ましたが、なぜこんな昔の報道番組が問題視されるかについては、今ひとつハッキリしませんでした。ネットで検索しますと、令和3年の2月から5月にかけて5名の国会議員が7回にわたり、この問題を国会で取り上げていました。
2021 ( 令和3 ) 年 2月25日 杉田水脈氏
3月16日 和田政宗氏
3月18日 杉田水脈氏
3月20日 青山繁晴氏
5月13日 和田政宗氏
5月17日 山田宏氏
5月27日 務台俊介氏
昔の報道番組とは言っても、国会で主管の総務大臣とNHKの前田晃伸(てるのぶ)氏を前にした議員の質問です。国民を代表する5人の政治家が7回も質問しているのに、明確な回答がなかったと言うのですから、不思議な話になります。参考までに紹介しますと、前田氏の略歴は次の通りで、過去に報道関係の仕事をしていません。
「日本の投資家、実業家。元みずほフィナンシャルグループ社長・会長。第23代日本放送協会会長。元国家公安委員会委員。肥後銀行監査役」
「生年月日: 1945(昭和20)年1月2日 (年令 78歳) 大分県中津市生まれ、東大法学部卒」
「なぜ、国会でNHKの予算を審議するのか。」
・NHKの予算は、毎年度国会の承認を得ることが放送法に定められています。(放送法第70条)
・NHKの主たる財源である受信料は、広く視聴者のみなさまに公平に負担していただく公金であり、その使途については、放送法で一定の範囲に限定されてはいるものの、その範囲ならNHKが自由に使い得るわけではなく、国民・視聴者(受信料支払者)の了解を何らかの形で得る必要があるものと考えています。
視聴者の皆様などと、分かったような建前を述べています。NHKは言葉の使い方からして間違っていますが、横柄な彼らは気が付きません。この場合の言葉は、「視聴者の皆様」でなく「国民の皆様」でなければなりません。「視聴者」というのは、商売人が使う「お客様」と同じ意味しかありません。
こんな気持でいるから、国民の代表である議員から質問をされても、平気ではぐらかし、木で鼻を括ったような回答をして恥じません。
・一般にこうした国民のための監督業務は、行政が行うのが通例です。しかし、NHKは放送機関であり、放送の自主自律 、表現の自由を確保する観点から、行政ではなく、視聴者、国民の総意を代表するとされている国会が、NHKの予算等の審議・承認を行うこととされているものと理解しています。
理解していないから、国会で何度も質問され問題視されているのですが、伏魔殿と呼ばれる金まみれの組織体は超然としています。下記 1. 2.を理解していると公言しますが、私に言わせれば、「嘘は泥棒の始まり」でないかと、そんな気がします。
1.協会は、毎事業年度の収支予算、事業計画及び資金計画を作成し、総務大臣に提出しなければならない。これを変更しようとするときも、同様とする。
2.総務大臣が前項の収支予算、事業計画及び資金計画を受理したときは、これを検討して意見を付し、内閣を経て国会に提出し、その承認を受けなければならない。
「トラッカーについての発見」をブログにしていましたら、safariが侵入阻止したトラッカー数が100件を超え、本日は112 件になりました。昨日の夜には、goo事務局から以下の警告が表示されました。お馴染みのものとは思いますが、息子たちの参考にと紹介します。
機械音痴、システム音痴の私なので、「トラッカーについての発見」も、ネットに詳しい人にとっては当たり前なのかもしれません。あるいは、私の思い過ごしと笑われるのかもしれませんが、それを承知でブログを綴ります。
ブログの編集画面の中に、「アクセス解析」ページがあります。最近6時間のアクセス数が、時間ごとに棒グラフで表示され、ブログ全体の中で自分のブログが何位にランクされているのかが見えます。314万3千83のブログ中で、「ねこ庭」は2000~5000番目あたりを日々動いています。
「83人の読者登録の割には、読まれているのではないか ?」と、時には考えますが、「アクセスされたページ」の情報を見ますと、操作ミスで削除したブログや、たった今公開したばかりのブログに複数の読者がアクセスしている数字が表示されます。こうした不思議な数字が混じっているのですから、ランキングもさほど信じられません。しかし「発見」は、こんなことではありません。
「アクセス元ページ」というデータがあり、どこを通じて「ねこ庭」のブログを読んでいるのかが分かります。「Google 検索」「yahoo 検索」などと、検索されたWebサイト名が件数と共に表示されます。私が発見したのは、聞きなれないWebサイト名に関するものです。
お金はありませんが時間が沢山ありますので、昨年6月以降の観察で次の事実を確認しました。[プライバシー レポート]の中で、safariが阻止したトラッカーの数字が異常に増えた時期でもありました。
1. 「金○成」の自伝等に関するシリーズを書いていた時 80~120件の阻止
2. 毛沢東、鄧小平、江沢民等に関するシリーズを書いていた時 60~80件の阻止
3. 「憲法改正」「国民投票法」等に関するシリーズを書いていた時 60~80件の阻止
ここからが「発見」の内容になります。聞きなれないWebサイト名を、暇にあかせて検索、検討、調査した結果次の事実を見つけました。
1. は、朝鮮○連系の組織か団体 2. は、中国政府系の組織か団体
そうなりますと残る3. は、日本国内にある反日左翼組織となります。この辺りは私の勝手な思い込みかもしれず、根拠が薄弱ですが、これまでの経緯からして共産党系の組織か団体ではないかと推測しています。共産党親派の人物が、連日のようにおかしなコメントを入れてきた時期と重なります。
たった83人の読者登録しかない「ねこ庭」のブログが、高いランクにある理由はもしかするとこうした反日組織が大挙して侵入しているからではないか・・と、これが私の「発見」の全てです。
「証拠がどこにあるのか」と問われますと、ここに述べている以上のものは何もありません。いわば状況証拠とでもいうのでしょうから、信じて欲しいとも思いません。息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々へ、何かの参考になればと紹介しています。
今回わざわざ[プライバシー レポート]についてブログにしましたのには、理由があります。渡部氏の『日本史の真髄』を続けていますと、なぜか「トラッカーの阻止件数」が増えているからです。二、三日前は、60件だったものが今日は109件になっています。「女性天皇」や「女性宮家」について述べていますので、気に入らないのだろうと思いますが、状況証拠から推測しますとトラッカーがいるのは、共産党系の組織や団体ということになります。
今のところ何も実害がありませんので、無視しても良いのでしょうが、一言は言いたくなります。「言論の自由」「学問の自由」「信教の自由」と、反日左翼の学者と政党は主張し、「日本学術会議」への政府の関与を批判していますが、「ねこ庭」への侵入行為は批判しないのでしょうか。
年金暮らしの定年退職者のブログであっても、私にすればこの「ねこ庭」は「言論の自由」「学問の自由」「信教の自由」の場であり、学びの庭です。古代の天皇や現在の皇室について真面目に勉強している学徒を、何のために邪魔しようとするのでしょう。
だから私は、やはり息子たちに言います。
「反日左翼政党に、選挙の一票を入れてはいけません。」
「日本の過去を否定し、ご先祖の功績を否定する左翼系反日学者を許してはいけません。」
「憲法を改正し、自分の国を自分で守る普通の国にしなくてはいけません。」
こういうブログを公開しますと、明日からの[プライバシー レポート]の阻止件数が増えるのでしょうか ?
私はsafariを使って、ブログを書いています。立ち上げた画面に、次の表示が出ます。
[ プライバシー レポート ]
「過去7日間以内に、〇〇件のトラッカーによるプロファイリングが阻止されました。」
トラッカーの意味は侵入者というらしいのですが、ネット上の大量の情報へアクセスし、世間の流行、人々の好み、嗜好品の変化などを収集し、集めたデータを必要とする者に売るのだと聞いています。
集められたデータは、年齢別、地域別、職層別など様々に加工され、買い取った企業が新商品の開発に利用するなどしていると聞きます。こういうことなら人畜無害なので、気にする必要がありません。[プライバシー レポート]を作り、トラッカーの侵入阻止情報をブログ作成者にレポートする理由もありません。
「浜の真砂は尽きるとも、世に盗人(ぬすっと)のタネは尽きまじ」と、大泥棒の石川五右衛門が言ったように、この世には善人と同じくらいの悪人がいます。他人の不幸は知ったことかと、悪事を金儲けに利用する人間たちがネットの世界にもいます。
こ奴らはネットの世界で大量の情報を集め、おかしな加工をして金を稼ぎます。
・反日左翼思想の人間の年令別分布、階層的分布、地域的分布、大学別の分布等々
・反日左翼に反対する人間の階層的分布、地域的分布、大学別の分布等々
こればかりではありません。
・「女性宮家」「女系天皇」に反対する人間の階層的分布、地域的分布、大学別の分布等々
一つの例として日本に絞りましたが、トラッカーは世界の国々に生息し世界規模で活動しています。トラッカーが個人でなく、国や政府関連組織の一部であるとしたら、厄介な話になります。というより、すでに情報戦争の一部として、多数の国の政府機関に組み込まれていると聞きます。
ブログを始めて今年で13年目になりますが、[プライバシー レポート]の数字に関心を持つようになったのは、去年の6月以降です。「憲法改正の動き」「国民投票法」「金○成伝記」「プーチンの核発言」などをシリーズで書くと、共産党親派とおぼしき人物から、面白いコメントが寄せられるようになりました。
これに関係があるのか、ないのか、今も確信はありませんが、[プライバシー レポート]の数字が変化していることに気づきました。息子たちは知っているのかもしれませんが、念のため紹介することにしました。[プライバシー レポート]をクリックすると、内容が詳細になります。
ページが二つあり、一つには「Webサイト名」と「侵入してく来たトラッカー数」、もう一つには「侵入してきたトラッカー名」と「トラッカーのオーナー名」が表示されます。
「ねこ庭」を訪問される方々には、珍しくないのでしょうが、これも念のため本日の[プライバシー レポート]から一部を紹介します。
「Webサイト名」と「侵入してく来たトラッカー数」
・ gendai media ・ lifehacktibist.com ・ mynavi.jp
・ yahoo.co.ip ・ goo.ne.jp ・ melblo.jp
webサイト名はまだありますがこのくらいにしておき、トラッカー数は省略します。
「侵入してきたトラッカー名」と「トラッカーのオーナー名」
・ doubleclick.net ( google )
・ google analytics . com ( google )
・ googletagmanager . com ( google )
・ facebook.com ( acebook )
・ twitter .com ( twitter )
・ ying.jp ( yahoo japan )
( ) 内はトラッカーのオーナー名ですが、これも一部を紹介しています。・・とここまで書いて操作を間違い、未完成なのにブログを公開してしまいました。ここまでは何の発見でもなく、普通の話です。
ちょうど良いところでスペースがなくなりましたので、「発見」の内容紹介は次回といたします。
余分なコメントを入れず、渡部氏の解説を紹介します。
「しかし清麻呂の報告は、一点の曖昧さのない明快なものだったので、女帝も道鏡に位を譲ることを断念せざるを得なかった。皇位 — 天津日嗣(あまつひつぎ)の位 — は、一人の勇気ある人物の抗直さによって護られたのである。」
「ここを頼山陽は、〈 和気の清(わけのせい) 〉という言い出しで総括してみせた。」
「〈清を改めて穢(けがれ)と為すも清を損せず 〉というのは、清麻呂を穢麻呂と改名させたところで、清い心は変わらないと言うことである。」
「清麻呂の清い心は、天地正大の気となり、広く天下に満ちるようになったと言うのが、〈 清気浩々として天地に塞がる 〉の意味である。天津日嗣の位、つまり皇位は〈赤日〉に例えられる。」
「真っ赤な太陽にも比すべきわが国の皇位を護ることができたので、大空が晴れ渡って澄んだような感じである、ということを〈 赤日を護り得て天中明らかなり 〉と頼山陽は表現した。」
「〈臣の舌は抜く可し〉、〈臣の語は屈す可らず〉というのは、絶大な権力を握っている道鏡を前にして、すばりと神託を述べた清麻呂の心意気だ。」
「最後の一行、〈三寸の舌、万古の日〉とは、何という簡潔で力のある対句であろうか。清麻呂は三寸の舌をもって、万世一系の日輪にもたとえられる皇位を護ったのである。」
氏の解説で、難解な詩が霧が晴れるように明らかになりました。
「その翌年、女帝は亡くなられた。ちなみに道鏡は、造(みやっこ)下野(しもつけ)薬師寺に別当として左遷された。先帝の寵を受けていたので、刑には処さなかったのである。東国とはいえ、日本三戒壇のあるところである。失意のせいか道鏡は間も無く死んだそうだが、葬式は庶民扱いだったという。」
別途調べたところによりますと、道鏡の失脚後清麻呂は大隅国から呼び戻され、豊前守に任ぜられ官界へ復帰したといいます。また配流中に伐採されていた郷里の祖先の墓ついても、祖先4名と清麻呂を美作備前両国の国造(くにのみやっこ)とする旨の詔(みことのり)が出されています。
道鏡に対する処置と言い、清麻呂の名誉回復の沙汰といい、朝廷の対応にはほっとさせられるものがあります。暗く重い書き出しであっただけに、寛大な結末の解説に救われました。
「文武、聖武、孝謙、淳仁の各天皇は、いずれも天武天皇の系統であったが、称徳女帝が子なくして亡くなられると、天智天皇の系統の光仁天皇が出られたわけである。注目すべきことは、これ以後天武天皇系の天皇は一人も出ないということである。」
「皇統を妖僧に譲ろうとする天皇を出した系統からは、二度と天皇を出さない、というのが上古における暗黙の了解事項になったのではないか。」
氏はこのように説明しますが、私は別の考えをしています。天皇の系列の問題より以前に、独身の皇女(ひめみこ)をそのまま天皇にしたという不自然さが、この不幸な出来事の起点ではなかったかと、そう思えてなりません。
現在の問題に戻して考えますと、「愛子さまを独立宮家にする」という意見は、独身の女性天皇を誕生させる可能性があります。「結婚は両性の合意による」と、秋篠宮様が言われている通りだとしますと、愛子さまは好きな相手ならどなたとでもご結婚が可能です。眞子様の例がありますように、お相手が問題を抱えた家庭の男性だとしますと、皇室だけの不幸でなく国民の不幸にもなりかねません。
イギリス王室のように、外国籍の方とご結婚され、お子様が男子なら未来の天皇ですが、ここで日本の皇統が途絶えます。全ては万が一という前提での推測ですが、可能性がゼロでないところに悩ましさがあります。
一方で「国民主権」の憲法下だから国の主人は国民だと、学者や政治家が主張しますが、日本の歴史を知りますと果たしてそれだけで良いのだろうかと、疑問を覚えるのは私一人でしょうか。
ご先祖さまが護られたてきた皇統はこれからも護持すべきでないのかと、考えの末はここにきます。本意とするところではありませんが、節度を弁えながら渡部氏のように皇統や皇室について今後も意見を述べようと思います。そうしなければ、左翼系の反日学者たちが扇動し、日本の伝統や歴史を崩壊させる心配があるからです。
皇室の方々も日本の歴史を本気で学ばれ、ご自身でも皇統を守る大切さを身につけられるべきでないかと、そんな気がしてきました。
今回は、「頼山陽の漢詩」と「徳岡氏の大意」「渡部氏の解説」を紹介します。
〈「書き下し文」( 頼山陽 ) 〉 七行詩
和気の清
清を改めて穢(けがれ)と為すも清を損せず
清気浩々として天地に塞がる
赤日を護り得て天中明らかなり
臣の舌は抜く可し
臣の語は屈す可らず
三寸の舌、万古の日
〈 「大 意」( 徳岡氏 ) 〉
和気清麻呂は清廉
名前の「清」を「穢」に改めさせられたところで、本質の清さは失われはせぬ
清気は天いっぱいにみなぎり
真紅の太陽を見事に守って 天の秩序をはっきりさせている
臣の舌は抜くことができましよう
だが臣の言は枉(ま)げられませぬ ( と君は言った )
三寸の舌、それが守ったのは万古の日の安泰なのだ
〈「解 説」 ( 渡部氏 ) 〉
渡部氏の解説も続けて紹介します。歴史に残るへつらい者の、中臣習宣阿曽麻呂の言葉を聞かれた称徳天皇ばどのようにされたのか。
「女帝は元来、宇佐八幡を尊崇すること特別なものがあった。その神様が、自分が心中望んでいることを言ってくれたのである。しかしさすがに重大事であるため、女帝も慎重であった。それで、当時の近衛将監であった和気清麻呂を呼んでこう言われた。
「昨夜、八幡大神が、お前の姉尼の法均(ほうきん)に憑依して言うことがあると、私に言われる夢を見た。お前は法均に代わって宇佐へ行き、信託を聞いてきてくれ。」
法均は女帝に仕えていた清麻呂の姉ですが、出家して尼僧になっている元女官でした。この時道鏡は、清麻呂を脅迫し、かつ誘惑して言ったそうです。
「八幡大神は、私を皇位に即かせたいといっておられるのだ。お前が宇佐へ行って神託を得て、私の希望を叶えてくれれば、お前を太政大臣にし国政を任せよう。そうしない場合には、重刑に処する。」
「しかし清麻呂は、その脅しにも誘いにものらず、決死の覚悟で宇佐へ行き、神託を乞うた。神が憑依して言われたのはこうであった。」
〈 わが国は開闢以来、君臣の分が定まっている。臣下が皇位につくことはないことである。皇位は必ず皇胤(いん)が 受ける。無道な人間はすみやかに取り除くべきである。 〉
「清麻呂は帰ってきてこの通りを報告した。道鏡は大いに怒った。清麻呂は姉の法匀と共に、神の教えを曲げて朝廷を欺いたものだとされ、名前も別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と変えられて、九州は大隅へと流されたのである。姉の法均尼も還俗して、別部広虫売(わけべのひろむしめ)とされ備後に流された。そして、清麻呂の高祖父から四代の墓所の木も切られた。」
報告した清麻呂は、立身出世をしたものと思っていましたので、この結末には驚きました。正しいことを行なっても、報われずに終わった人々がいることを教えられました。
あと少しですが、大事な解説なので回を改めて紹介いたします。
天皇・皇后も人のお子ですから、皇位継承を誰にするかにつき、自分の愛する者にしたいとされるお気持が分からないではありません。しかしこのため長年のしきたりを無視されると人心が乱れ、無用の殺生が生ずることは、前例があるにもかかわらず繰り返されます。
大化の改新、壬申の乱も、結局は皇位継承者を曖昧にしたり、無理を通したりしたために疑心暗鬼が生じました。聡明だった天智天皇然り、天武天皇然りでした。渡部氏は言及していませんが、天武天皇の曾孫である聖武天皇が、似たような間違いをされたと私は考えます。
聖武天皇はご自分の娘・阿部内親王を、早くから女性として日本最初の皇太子にされました。さらに聖武天皇は仏道に専心するため、生きているうちに皇位を皇太子に譲られました。説明が省略されていますが、阿部内親王は独身のまま孝謙天皇として即位されています。
「西暦756年に、出家されていた聖武天皇が亡くなられた。その時の遺言によって、天武天皇の末の皇子である新田部親王(にいたべしんのう)の子の、道祖王(ふなどおお)が皇太子になったが、翌年孝謙天皇は道祖王を廃した。」
ここからは文章体をやめ、項目で説明します。
・孝謙天皇は、皇太子を天武天皇の孫である大炊王(おおいのおお)に代えた。
・大炊王は、『日本書紀』の編者である舎人親王の子である。
・翌年孝謙天皇は譲位し、大炊王が第四十七代淳仁(じゅんにん)天皇として即位した。
・淳仁天皇は藤原仲麻呂を重用し、恵美押勝(えみおしかつ)の名を与え、太政大臣にした。
・孝謙天皇は上皇として政治に関与し、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)という僧を宮中に入れて、寵遇されていた。
「権力が二つあれば、必ず争うことになる。」渡部氏はこのように言い、二人の争いの経過を語ります。
・孝謙天皇と淳仁天皇と恵美押勝の関係は、元来良好であったのである。近江の保良宮(ほらのみや)へ一緒に行幸され、歓を尽くした。
・しかし西暦762年頃から、上皇と天皇の間が険悪になっていった。その原因は道鏡という僧侶の登場である。
・上皇が病気になられた時、道鏡は上皇の看病禅師となり、病気の平癒を祈り寵愛を受けるようになったと言う。
・上皇は結婚したことのない女性で、二人の間には後世誇張され伝えられるようになった特別な関係もあったらしい。
・仲の良かった淳仁天皇が、道鏡を上げて上皇を批判したため、これに対して上皇が天皇とその支持者である恵美押勝を非難する詔勅を出した。
・喧嘩が公になり、その翌年恵美押勝は実力で反乱を起こしたが、彼は敗れて琵琶湖のほとりで殺された。
・彼の一族と従者も全て最後を遂げ、淳仁天皇は廃されて淡路へ流され、上皇が重祚して称徳天皇となり一件落着した。
ここまで解説されても、まだ頼山陽の漢詩の前段です。六行の詩の一行にも触れていません。寧ろ話の山はこれからです。
「武力で制覇した政権は強い。その寵愛を受けていた道鏡の勢力は、飛ぶ鳥を落とすほどだった。」
・恵美押勝が滅ぼされると道鏡は大臣禅師となり、上皇が重祚して称徳天皇になると、太政大臣禅師に任じられた。
・それでも足らぬかの如く、翌年には法皇の地位を与えられ、人臣の域をこえて皇族に準ずる待遇であった。
・道鏡は天皇に準ずるような振る舞いを始め、大臣以下の拝賀を受けたり、宮中で宴を催し群臣に物を与えたりしている。
氏も不愉快になっているらしく、辛辣な解説になっています。
「このようなことは、女帝と特別な関係がになければ考えられないことである。正史である『続日本紀』の記述は、後世のヨタ記事とは違って最も信頼できるものであるが、この中にも二人が特別の関係にあったことが十分示されている。道鏡は天皇の御住居に住んでいたと言うから、夫婦同様の生活をしていたと解するのが通例である。」
「何しろ正史にこれだけ書かれているくらいだから、一般の書になると描写はさらに露骨になる。」
こう言って氏は、奈良時代に書かれた『日本霊異記』、鎌倉時代の『古事談』・『水鏡』、室町時代の『下学集』などの一部を紹介します。しかし学者ですから、冷静な意見も述べます。
「このような阿保な話をあげたのも、それがグロテスクにデフォルメ化された形で、女帝と道鏡、さらに皇位と仏教を示しているからである。」
「女帝には結婚の体験がなかった。恵美押勝を滅ぼしたり、皇太子道祖王を滅ぼしたり、淳仁天皇を流したりした時の称徳帝は、強く、明敏な女性であったように思われる。」
「道鏡も、これという氏素性もなく宮廷に出入りするようになったと言うのだから、抜群の修行僧だったに違いない。四十才になり、もし立派な男性を初めて知ったとしたら、女帝の考えもおかしくなってくるのではないか。子供のない女帝は、道鏡を後継者に選びたいと気になっていたようである。」
「そうすると、その気配を察して胡麻をする人間が出てくる。」
西暦769年5月に、筑紫太宰の主神(かんつかさ)である中臣習宣阿曽麻呂(なかとみのすけのあそまろ)が、こう言上してきた。
「八幡の神様が現れて教えて申されますには、道鏡を皇位に就かせましたならば、天下は太平であろう。」
これで中臣習宣阿曽麻呂は歴史上の大馬鹿者として名前を残し、子孫には気の毒な話です。頼山陽の漢詩にはまだつながっていませんが、スペースが足りなくなりましたので、次回といたします。
八闋 和気清 ( わけのせい ) 和気清麻呂と道鏡 7行詩
九闋 遣唐使 ( けんとおし ) 帰らなかった遣唐使 7行詩
十闋 城伊澤 (いざわにきづく) 桓武天皇と蝦夷征伐 8行詩
十一闋 髫齓天皇 ( ちょうしんてんのう ) 藤原一族の繁栄 6行詩
十二闋 賢聖障子 ( けんじょうのしょうじ ) 菅原道真の出世と左遷 8行詩
枚数にして6枚、ページにすると12ページ、短い解説ですが中身は盛り沢山です。親子兄弟、異母兄弟姉妹、甥姪など込み入った人間関係に苦労しましたが、どうやら皇統について学ぼうとすれば、避けて通れない道であることが分かってきました。
現在の天皇御一家は「皇室」と呼ばれ、江戸城の跡地にご親族が家族毎に分かれて住んでおられ、地域一体を総称して「皇居」と言います。政治にも軍事にも無関係となられ、国民統合の象徴としてのご存在です。古代の天皇は政治の中心におられ、軍事も握られていましたから、今とは比べ物にならない権力と権威を持たれていました。
ですから、天皇の居られる場所は「皇室」でなく「宮廷」と呼ばれたのだと思います。「八闋 和気清 ( わけのせい )」のたった七行の漢詩を理解するには、これまで同様時代背景という、基本的な氏の解説を読まなければ先へ進めません。
「古代においては、天皇が変わるたびに都を移していた。」
へえ、そういうことだったのかと、まず驚きます。
「遷都といえば、京都から東京へ移るような大移動を今日のわれわれは連想しやすいが、当時はたいてい近い所を動いていた。今で言えば、皇居から赤坂離宮とか、浜離宮に移るのとそれほど変わらない。つまり新帝は、前の天皇と違う御殿で政治を執られたのである。」
近親が互いに争い、疑心暗鬼で殺し合いをしたのですから、人心一新のためにも新しい場所が必要とされたのではないかと思います。書を読み進むほどに、平穏な日々の少なかった皇室を知り気持ちが沈みます。
国内では並ぶ者のない、富と権力の中心におられるとなれば、へつらう者も妬むも者も出てきます。油断をすると疑心暗鬼の風が吹き、人を見る目が無いと、一日も務まらまい大変な地位です。
「第四十三代(710年)元明天皇から、第四十九代(780)光仁天皇までの七代、70年間は都を奈良に置いていたので、奈良時代と呼ばれる。七代のうち、四代は女帝であった。一つの時代の半分以上が女帝というのは、注目すべきことである。ただし女帝孝謙天皇は、重祚して称徳天皇となられている。」
「八闋 和気清」の中心人物となられるのは女帝孝謙天皇ですが、氏はまだ何も触れません。無関係と思われる時代背景の説明を続けます。
「奈良時代の最も目覚ましい事業は、聖武天皇による東大寺の起工である。建築史の専門家によれば、八世紀に行われた世界最大の建築工事であるという。」
「大仏もできたし、正倉院もできた。文献的にも『古事記』『日本書紀』『風土記』『万葉集』なども編まれた、輝かしい時代である。『日本書紀』は、元正天皇という女帝の時にできている。」
「元正天皇も聖武天皇も、天武天皇(おおあまのおおじ)の系統の天皇である。そのせいか、大友皇子は『日本書紀』では天皇として認められていなかった。しかし近江で実際に天皇としての大権を持っていたことは確かなので、明治三年に弘文天皇と追謚(ついし・死後に送られた名)され、三十九代天皇とされた。」
「いずれにせよ、天武天皇の孫が文武天皇であり、その子が聖武天皇であり、その娘が阿部内親王、のちの孝謙天皇である。」
ここでやっと孝謙天皇の名前が出てきますが、スペースがなくなりましたので、続きは次回といたします。私は以降の話を、「女性天皇」の危険性に関する事例として受け止めていますが、明るい話題でありませんので皇統に興味のない方はスルーしてください。