ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『日本史の真髄』 - 47 ( 頼山陽の漢詩と反日学者の研究書 )

2023-01-14 23:15:03 | 徒然の記

   大風一たび起こって虎に翼を生ず

   関西(かんせい)の草木皆色無し

   当初虎に被(き)するに袈裟をもってす

   爪牙(そうが)皆露わるるを奈何(いか)にすべき

 渡部氏の解説を紹介すると、漢詩の意味は自ずから伝わってきます。

  「行動を起こせば、大海人皇子は虎の如く敏速であった。六月二十二日に家来を自分の所領である美濃国へ派遣し、兵を挙げて不破関の道を塞がせ、まず朝廷と東国の連絡を断ち切らせた。」

 「自分は、大津の都から駆けつけた長男の高市皇子(たかいちのみこ)と合流して伊勢に入ったが、そこの国司は歓迎して迎えた。さらにすぐに、鈴鹿の山道を塞がせた。」

 そうしていると大きな黒雲が、天にかかったそうです。天文に通じていた大海人皇子は、自らで占い、これは天下両分の前兆で自分が天下を取ることになると、判断します。一方近江京では、「大海人皇子起つ」という知らせが入ると、上下みな愕然として、山奥に逃げ出す者も出たと言います。

 「大友皇子は東国との連絡が取れず、中国地方、北九州の国守や太宰(おほみこともち)は、大海人皇子に好意を持ち動きそうにない。すぐに行動を起こすべしという議論もあったが、大友皇子はぐずぐずしていた。」

 人望の有る無し、人間の器の違いと、氏はそのような解説をしていませんが、人心の動きを見ていますとつい考えたくなります。しかし私はここに、皇室の伝統である血筋への畏敬の動きを見ます。

 大友皇子の母は、天皇の給仕役をする身分の低い女官であったと、氏が説明していまし、また氏次のようにも語っていました。

 「当時は、皇位の継承順位が特に決まっていませんでしたが、皇族か有力豪族の娘が産んだ子供でなければ、皇位に就くことが難しかった。」

 「人間平等」、「男女平等」と左翼学者が口を揃え、誰が天皇になっても良いという伝統無視の意見を述べていますが、古代ではこのような意見は通用しませんでした。地方の豪族や官吏たちが、こぞって大海人皇子の味方をしたという事実は、皇統の血筋を重んじる気持が浸透していたことを示すのではないでしょうか。

 「結局大友皇子は、自分の母の郷里である伊賀や大和では、局地的な勝利はあったが、近江京は陥落した。大友皇子は自殺し、右大臣・中臣金は死刑、左大臣・蘇我赤兄は流刑になり、壬申の乱は決着した。」

 大海人皇子は即位して、天武天皇となります。完全な武力制圧でしたから、天皇の権力は絶大であり、人々も天皇を神のように見るようになります。氏はこの根拠として、『万葉集』の中に、天武天皇を「皇(おおきみ)は神にしませば」と讃える和歌が何首がある事実を挙げています。

 最後の三行について、氏の解説を紹介します。

 「初め袈裟を着たのだが、虎はやはり虎、機を見て爪牙を出し、近畿一帯を一挙に武断平定したのである。これが頼山陽のイメージである。」「戦後、天武天皇について標準書とされる単行本を通読したが、そこには〈虎に翼をつけて放てり〉という『日本書紀』の表現に全く言及がなかった。」

 それとなく述べていますが、さてはこの本も反日左翼系学者の著作なのかと推察できます。だからその分を加え、頼山陽への誉め言葉が強くなっています。

 「頼山陽は一人の人名もあげず、近江京にも触れず、壬申とも言わず、ただ〈虎〉のイメージでこの乱のことをまとめた。そう考えてみれば、天武天皇についての一巻の研究書よりも、頼山陽の七行の詩の方が、大海人皇子と大友皇子の壬申の乱を、よりよく眼前に彷彿せしめていることを認めざるを得ない。」

 「ここにおいてわれわれは、〈 史は詩  〉なることを改めて知るのである。」

 戦後出版された反日学者の研究書と比較して語られますと、私にも頼山陽の漢詩の奥深さが分かる気がしました。

 次回は、「八闋 和気清 (  わけのせい  ) 和気清麻呂と道鏡     7行詩 」です。

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『日本史の真髄』 - 46 ( 古代も現在も、「疑心暗鬼」 の風 ? )

2023-01-14 14:31:32 | 徒然の記

 こうして、大友皇子の皇位に対するライバルである大海人皇子は、吉野へ去りました。しかし大友皇子と、その補佐役の者たちの不安は去らなかったようです。渡部氏の解説を紹介します。

 「仏道に入ったと言っても、恐ろしい叔父なのである。宮廷の西殿にある敷物の広間の仏像の前に、六人が集まった。大友皇子、左大臣、右大臣、三人の大納言である。まず大友皇子が香炉を取って立ち上がり、宣誓の言葉を述べた。」

 「この六人は心を同じくして、天皇より次期政権担当の詔(みことのり)をいただいた。もしこれに背くようなことがあったらば、必ず天罰を受けるであろう。」

 続いて六人が順番に香炉を取り、泣血宣誓(なきてうけひ)したと言います。泣血宣誓とは、血が出ると思われるほど涙をながして泣くことだそうです。

 「われわれ臣下六人の者は、殿下(きみ・大友皇子)にしたがって、天皇の詔をいただきました。もしそれにそわないようなことがありましたら、四天王も打ちたまい、天神・地祇(あまつかみ・くにつかみ)もきっと懲罰してくださいませ。三十三天もこのことを御照覧あれ。裏切りましたら、子供も絶え、家門も必ず滅びるようにさせてください。」

 泣血宣誓(なきてうけひ)という言葉を初めて知りますが、六人揃って、このような宣誓をする叙述に不自然さがあります。氏の解説も、私の疑問を裏付けます。

 「次の天皇になる方と、輔弼(ほひつ)の家来たちが、こんな盟約を取り交わすのがそもそもおかしい。天智天皇のお言葉を、謹んで受ければ良いだけの話である。これでは何か、謀反を起こすときの集団の宣誓に似ている。」

 「これは六人の者たちの後ろめたさ、あるいは弱さの現れと見て良いであろう。恐ろしい虎は吉野にいて、虎視眈々としている。」

 氏の解説には判官贔屓とでもいうのか、大海人皇子への肩入れが感じられますが、事情を詳しく知らない私にすれば、いずれの側にも与する理由がありません。私が感じるのは人間の性(さが)、あるいは業(ごう)か、「疑心暗鬼」の世界です。

 反日左翼と保守の対立する現在の日本も、「疑心暗鬼」が双方を支配しています。米国の民主党と共和党も、「疑心暗鬼」が対立を深めています。もっと言えば、米中の対立、ロシアと自由主義諸国との対立もみなこのせいです。もっともらしい嘘の情報が飛び交い、人々が何を信じれば良いのか分からなくなっています。

 大海人皇子と大友皇子の対立も、こんな視点で眺めますと、古代も現代もなくなります。悪意の情報と噂がこれに輪をかけ、頼山陽の言う「大風」となります。渡部氏も、私と似たような気持になったのかもしれません。

 「大友皇子たちは、吉野に行った大海人皇子を、放っておていもよかったのかも知れない。いずれにしても、大海人皇子を挙兵せしめるような事態が起こったのである。」

 天智天皇が亡くなられた翌年の五月、大友皇子が、大海人皇子を滅ぼそうとしているという情報が吉野に届きました。大海人皇子の家来の報告です。

 「私は自分の用事で、美濃に参りました。近江朝廷(大友皇子)は、美濃と近江の国司(くにのみこともち)に、〈天智天皇の山稜(みささぎ)を造るために、人を集めておくように〉、と命令を下し、各人に武器を持つようにさせております。」

 「これは山稜を造るのでなく、きっと別の計画があるのでしょう。早く避難なさいませんと、危険なことが起こるに違いありません。」

 この他にも様々な情報がもたらされ、大海人皇子はそれが本当かどうかを確かめさせたそうです。報告が事実だったと知ると、皇子は決意されました。

 「自分が皇太子を譲って出家遁世したのは、自分の病気を治し、百歳までも長生きしようと思ったからである。それなのに今、やむおえず禍を受けようとしている。どうしてこのままなにもしないで、ほろぼされてなるものか。」

  これが頼山陽の残る四行の漢詩の、最初の一行です。

   大風一たび起こって虎に翼を生ず

   関西(かんせい)の草木皆色無し

   当初虎に被(き)するに袈裟をもってす

   爪牙(そうが)皆露わるるを奈何(いか)にすべき

 古代と違って現在は、様々なことが地球規模で起こります。「疑心暗鬼」も地球規模で広がっています。大海人皇子の置かれた状況が、現在の日本に似ていると考えてしまいます。敵対する中国、韓国・北朝鮮がいて、ロシアも加わろうとしています。飛来する核ミサイルへの備えも不十分な日本は、どうすれば良いのか。

 憲法の制約のため、敵対国の侵略を思いとどまらせる軍事力の行使もできません。私も含め、国内外に蔓延しているのは「疑心暗鬼」という人間の業(ごう)です。こんな時こそ神様の出番だと思いますが、キリストもムハンマドもヒンズーの神様も、日本の八百万の神々もなりをひそめておられます。

 「地球と共に一蓮托生の破滅」

 私たち庶民に残されているのは、こんな覚悟だけなのかと思いながら本日はここで終わります。残る三行の紹介は、次回といたします。

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『日本史の真髄』 - 45 ( 虎を南に放つ )

2023-01-13 17:39:39 | 徒然の記

      七闋 放乕南    (  とらをみなみにはなつ  ) 壬申の乱         7行詩

 今回は渡部氏の解説を、項目で紹介します。

  ・天智天皇の父は第三十四代舒明天皇であるが、同腹の弟に大海人皇子(おおあまのおおじ)がいた。

  ・この頃の兄弟は異母兄弟が多いのであるが、二人の兄弟の母は第三十五代皇極天皇となり、重祚して第三十七代斉明天皇になった人である。

  ・兄の天智天皇は大化の改新を実行し、蘇我氏を倒した偉人であるが、大海人皇子も雄々しく武けく、文武に通じていた。

  ・彼は兄の皇女(ひめみこ)である宇野讃良皇女(うのさららのひめみこ)を、妻に迎えた。つまり姪と結婚した。

  ・この人は夫の死後持統天皇になったのだから、古代の皇室の血は今からは想像できないほど濃い。

  ・この一事からしても「同姓めとらず」と近親結婚を極端に排斥する、朝鮮半島の文化とは異質であると指摘したのは、坂本太郎博士であった。

  ・何代も濃い血を重ねることには尊い血筋を守る意味もあり、近頃の道徳意識、或いは儒教的な倫理で考えてはいけない。

  ・天智天皇は即位すると、自分の弟である大海人皇子を皇太子として立て、次の天皇になるべき人として決定した。

  ・天智天皇の皇后や後宮には、皇族の娘、蘇我倉山田石川麻呂の娘たち、蘇我赤兄の娘、阿部内麻呂の娘など、名門や有力者たちの娘がいたが生まれた子供はいずれも幼くして亡くなった。

  ・ところが、天智天皇の眼鏡にかなった皇子が出てきた。母が天皇の給仕役をする女官・宅子娘(やかこのいらつめ)であった。伊賀皇子とも呼ばれた、大友皇子(おおとものみこ)である。

 自分の可愛い子供と信頼する弟のいずれに皇位を譲るのか、ここから天智天皇の葛藤が始まります。当時は、皇位の継承順位が特に決まっていませんでしたが、皇族か有力豪族の娘が産んだ子供でなければ、皇位に就くことが難しかったと言います。健康の衰えが顕著になった天皇が、大友皇子を重んじているという意図を示し始めます。

 ・最高位の太政大臣に大友皇子、補佐する左大臣に蘇我赤兄、右大臣に中臣金、大納言として蘇我果安(はたやす)、巨瀬人(こせのひと)、紀大人(きのうし)らが任じられた。

 朝廷の政(まつりごと)が、大友皇子を中心として行われるようになります。しかし天智天皇は、いよいよ病気が重くなると、後継天皇としては以前決めた通り、大海人皇子を選ぶという意思を明らかにしました。

 「このあたりが天智帝の偉いところで、臨終に及んで皇太子の地位を変えることはしなかったのである。」

 氏はこのように解説しますが、苦しい言い訳に聞こえます。本当に偉い帝なら、皇子と弟を惑わすような政をしてはなりません。私は天智天皇が、最後まで頭を悩まされていたのではないかと考えます。ご自分が中大兄皇子と呼ばれていた頃、蘇我入鹿の専横を武断された時、異母系の兄を中臣鎌足と共に殺したことなどを思い出されなかったのではないでしょうか。

 皇位の継承を曖昧にすると、人心が乱れ天下が乱れることを病気の重さが忘れさせたのかもしれません。だから大海人皇子は、皇位継承を告げられた時警戒してしまいます。政を任されている大友皇子を補佐する、豪族たちの結束が堅いことも理由でした。

 「大海人皇子は、兄の死後に即位することに危険を感じた。大友皇子を補佐する豪族との関係を思うと、自分は暗殺される恐れがあると考え即位辞退を言上した。」

 大海人皇子は兄と共に、蘇我入鹿の誅殺をはじめとする一連の皇族の関係する粛清を経験しています。かって有間皇子を挑発して謀反者にしたてあげ、刑死させるように仕向けたのは蘇我赤兄であり、彼は今大友皇子の左大臣です。たとえ兄が皇位を譲ってくれるつもりでも、彼らが何を考えているのか分かったものではない。聡明な皇子は、決断も早い。

 「皇位につけとのお言葉ですが、私は不幸にして多病でございます。どうぞ陛下よ、皇位は皇后にお与えください。大友皇子をたてて、皇太子としてください。私はこれから出家して僧侶になり、陛下のために功徳を積もうとおもいます。」

 天皇は、この申し出をすぐに聴き入れられたので、大海人皇子は天皇に再拝し、宮廷の中の仏殿で髪を剃って法師となられます。天皇が袈裟をお与えになると、皇子は屋敷へ戻り武器を全部差し出しました。天皇がお許しになったので、大海人皇子はすぐに吉野へ入った。

 「天智天皇のお言葉があったのが十月十七日で、皇子がこれを辞退し、剃髪して、武器を朝廷に収め、吉野へ立ったのが十月十九日である。この間、わずかに二日。まさに電撃的な動きであった。」

このことが『日本書紀』には、次のように書いてあると言います。

 「ある人曰(いわ)く、虎に翼をつけて放てり、と。」

 しかし吉野に入られた大海人皇子は、自分に仕える者たちを集め次のように言われました。

 「自分はこれから仏道の修行に入る。一緒に修行をしようと思う者は、ここに留まるが良い。しかし仕えて出世しようと思う者は、都へ戻り朝廷に仕えるが良い。」

 言われても都へ帰る者がいなかったため、再び家来を集め同じことを言われ、ようやく半分の者が都へ戻りました。残る半分は、皇子の元に残ると言って聞かなかったそうです。ここまでの状況を、頼山陽の三行が表しています。

   虎を南に放つ

   虎の眠るや酣(かん)たり

   虎の見るや耽(たん)たり

 「ここで大海人皇子のイメージは、虎として見事に、かつ簡潔に描かれている。では、近江京の大友皇子たちは何をやっていたか。」

 スペースが無くなりましたので、続きは次回といたします。

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『日本史の真髄』 - 44 ( 壬申の乱 )

2023-01-12 23:55:50 | 徒然の記

     七闋 放乕南    (  とらをみなみにはなつ  ) 壬申の乱                7行詩

     八闋 和気清    (  わけのせい  ) 和気の清麻呂と道教                7行詩

     九闋 遣唐使    (  けんとうし ) 帰らなかった遣唐使                  7行詩

     十闋 城伊澤    (  いざわにきづく  ) 桓武天皇と蝦夷征伐             8行詩

 「六闋(けつ) 白村江の戦い」が終わり、七闋へ進みます。壬申の乱については言葉だけ知っていますが、学校で習ったことがないので、内容は知りません。

 「〈壬申の乱〉は、皇統の争う内乱であるから、戦前は義務教育の教科書に出ることはなく、百科事典などで簡潔に扱われるに過ぎなかった。」

 私は戦前の教育を受けていませんが、終戦間際の生まれなので、GHQの統制下と言ってもまだ教科書が間に合わなかったのか、「壬申の乱」について教わった記憶がありません。

 「ところが戦後はこの乱について、多くの研究書や一般書が出された。額田女姫(ぬかたのひめみこ) が、天智天皇と天武天皇 ( 大海人皇子 ) の二人の後宮であったことから、その男女関係を読み込む見方もあるし、百済系帰化人と新羅系帰化人の対立が背後にあった、という説もある。しかしいずれも、これという根拠のある話ではない。」

 「白村江の戦い」は内容の入り組んだ漢詩でしたが、今回も明るいテーマではなさそうです。たくさん研究書や一般書が出版されているが、一番信頼性のある書は『日本書紀』であると解説していますので、紹介します。

 ・『日本書紀』が最も古く詳しい資料で、その他は『万葉集』の和歌くらいしかない。

 ・研究書等が使っている資料の多くは、数世紀も新しかったり、断片的だったりしている。

 ・『日本書紀』はほぼ同年代の事件である。われわれがこの前の戦争の時の、空襲の話をするくらいの時間的距離しかない。

 ・同時代の皇統の争いを、これほど詳しく書き残してくれた日本の正史『日本書紀』は、偉大というべきではなかろうか。

 最初の頃のように左翼学者の捏造について語っていませんが、氏の言わんとしているところは同じでないかと、推察しています。「『日本書紀』が皇室や天皇を賛美する書であるなど、とんでもない難癖だ」と、言外に匂わせています。

 今回は氏の解説を紹介する前に、「書き下し文」と「大意」を紹介します。 

 〈「書き下し文」( 頼山陽 ) 〉 七行詩

   虎を南に放つ

   虎の眠るや酣(かん)たり

   虎の見るや耽(たん)たり

   大風一たび起こって虎に翼を生ず

   関西(かんせい)の草木皆色無し

   当初虎に被(き)するに袈裟をもってす

   爪牙(そうが)皆露わるるを奈何(いか)にすべき

 〈 「大 意」( 徳岡氏 )  〉

   虎を南に放つ

   虎はぐっすり眠る

   そして虎はじっとうかがいすます

   大風さっと吹き起これば 虎の背には翼が生える

   関から西の草木は皆しおれる

   はじめ虎に袈裟を着せたはしたが

   爪も牙もみんな見えるのを隠しようはなかった

 「書き下し文」と「大意」を読んでも、それほどの重大事が書かれているという実感はありません。いつもの通り氏の解説を紹介しますと、漢詩の言葉が一変します。次回はスペース節約のため文章体を止め、項目を列挙します。

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『日本史の真髄』 - 43 ( 日本と百済の関係 )

2023-01-11 13:52:25 | 徒然の記

 頼山陽の詩が残り3行となりました。敗戦後の動きです。

   唐と吾と、孰(いず)れか得失

   忠義の孫子  海を踏みて来たり

   長く王臣となりて王室を護る

 「敗北した日本軍と、百済の主だった人々の日本への引き揚げが始まった。百済の人たちは、〈  もはや百済は滅び、先祖の墓所にも再び行くことはできない  〉と言って、日本軍の終結地に向かって行った。」

 「枕服岐城(しのふきのさし・今の全羅南道長城郡森猨面) にいた、彼らの妻子たちも集まって来た。そしてここから、日本軍、百済の重臣、多くの国民たちが日本の船に乗って出帆した。」

 この時氏が、思いがけない解説をします。

 「われわれはここで、ベトナム戦争の終末時を連想して良いかもしれない。アメリカ軍とベトナム要人とその家族と、運の良いベトナム人たちが、アメリカの船に乗ってベトナムへ脱出したのである。天智天皇の二年、西暦六六三年の秋のことであった。」

 半島からの引き揚げはこれで終わったわけでなく、その後もボートピープルがやって来たらしく、『日本書紀』の記録を紹介しています。

 ・665年 百済の百姓男女四百人余を、近江国神崎郡に居(お)らしむ 神崎郡の百済人(びと)に田を給う

     ・百済の男女二千余人を東国(あずまこく)に居(お)らしむ

     ・百済の重臣たちに恩賞を与え、一族の鬼室集斯(くいししふし)に五位を与え、学職頭(ふみのつかさ)に任ず

 ・669年 鬼室集斯、佐平・餘自信ら百済の男女七百人余に、近江国蒲生郡に居住地を与ふ

 「その墓は今でも滋賀県蒲生郡日野町の、鬼室神社(西宮神社)にある。このようにして百済の遺臣たちは朝廷に仕えたり、北九州の海岸の築城に参加したり、近畿や関東地方の開拓に従事したりしたという。文明国からの移住者が、移住先の文化や産業に貢献する例は要の東西を問わない。」

 ここで氏は宗教改革の時、カトリック国のフランスで迫害を受けたプロテスタントが、イギリスへ移住した例を挙げます。 

 ・いわゆるユグノーで、彼らは当時のイギリス人よりも技術工芸において優れていた。

 ・イギリスの産業を盛んにし、産業革命の基礎を築いたのはユグノーの子孫に多い。

 氏はここで当時の新羅が、文化的には日本人より優れていたことを認め、彼らの貢献を評価しています。朝鮮のことになると頭から否定し蔑視する学者でないことを知り、見習いたくなりました。反日教育を受け、日本を憎む韓国・朝鮮の人々と、日本で共存・同化した人々は区別して考えなくてなりません。難しい問題ですが、これは左翼学者たちのいう「差別」でなく、大事な「区別」です。

 「近い例では、ナチスに追われた学者を大量に受け容れたアメリカがある。アメリカの大学の学問的レベルが、ユダヤ人のおかげで急に上がったことはよく認められているところである。」

 昔のことを言えば、新羅だけでなく、今は敵対国となった習近平氏の中国からは、もっと多くの学者や僧侶が日本へ来て学問・文化の向上に貢献しています。中国や韓国・北朝鮮と共に仲良くできる「学問と文化の糸」が、今も繋がっていることを氏が教えます。

 「白村江の敗北で、日本は多数の人材を百済から得た。唐は朝鮮半島を征服したが、日本と唐とどちらが得をしたか、結果的には何とも言えない。これを頼山陽は、次のように表現した。」

 と言って氏は、最後の三行を紹介します。

   唐と吾と、孰(いず)れか得失

   忠義の孫子  海を踏みて来たり

   長く王臣となりて王室を護る

 「負け惜しみと言えば言えるが、事実の上から見れば、百済の忠臣は日本の皇室の忠臣になったのだから、頼山陽の言い方で良いことになろう。」

 戦いに負けたのは事実ですから、氏も頼山陽も負け惜しみだと思いますが、「六」の結びの言葉は心に刻む価値があります。

 「注意すべきことは、百済の忠臣が日本の神社にもなっていることである。古代において日本と百済は、同じ文化、あるいは同一民族意識であったと推定しても良いのであろう。」

 「また当時の海路の状況から言っても、多数の日本人や百済人が引き揚げできず残留したはずである。昔の百済の地域が今の韓国においても、他の地域とは違った意識を持たれていると聞くが、根はこんなところにあるのかもしれない。」

 反日の学者と韓国の反日学者は、渡部氏の意見を聞くと必ず反論するはずです。

 「彼は不遜にも、新羅が日本の領土であるかのような言い方をする。新羅には日本の影響など、昔から何も無い。」

 渡部氏はそんなことを述べているのでなく、中国や韓国・北朝鮮とは共に仲良くできる「学問と文化の糸」が、今も繋がっていると解説しているに過ぎません。韓国・北朝鮮との仲を割き、争いの種を撒いているのは、やはり日本国内の反日左翼学者たちでないかと、考えてしまう私です。息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々はどう考えられるのでしょうか。

     七闋 放乕南    (  とらをみなみにはなつ  ) 壬申の乱                7行詩

     八闋 和気清    (  わけのせい  ) 和気の清麻呂と道教                7行詩

     九闋 遣唐使    (  けんとうし ) 帰らなかった遣唐使                  7行詩

     十闋 城伊澤    (  いざわにきづく  ) 桓武天皇と蝦夷征伐             8行詩

 次回は、「 七闋 放乕南 (  とらをみなみにはなつ  ) 壬申の乱 」を紹介します

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『日本史の真髄』 - 42 ( 人を見る目の難しさ )

2023-01-10 18:46:54 | 徒然の記

 残る五行に、詩のテーマが集約されています。

   汝が兵食を資(たす)け  汝が行を護る

   奈(なん)すれぞ  汝自ら万里の城を壊(やぶ)りしや

   唐と吾と、孰(いず)れか得失

   忠義の孫子  海を踏みて来たり

   長く王臣となりて王室を護る

 天智天皇は日本にいた百済の王子豊璋(ほうしょう)に、兵隊と食料をつけて護送し、百済で即位させてやりました。頼山陽はこの豊璋を「汝」、つまり「君(ユー)」と呼んでいます。これが、

  汝が兵食を資(たす)け  汝が行を護る、という一行の意味です。

 「ところがこの豊璋という王子は、百済王になってみると暗愚であることがわかった。というのは、糺解(きょうげ)という王族の一員の讒言(ざんげん)を聞き、福信に謀反の心があると疑うようになったからである。

 「福信の掌(てのひら)に穴を開け、革紐で縛らせたが、それから先どうすれば良いのか分からず、切るべきか否かを諸臣に尋ねた。すると達率の徳執得(とこしふとこ)が、こんな反逆者は許すべきではありませんと答えた。」

 福信は大いに怒り、執得に唾を吐きかけ、腐った犬のような大馬鹿者めと怒鳴ったと言います。しかし彼は豊璋の家来に切られ、首は炎天下に晒されました。これが「白村江の戦い」のキッカケとなります。

 「新羅は、百済王が一番の良将を切ったという情報を手に入れるや、すぐに攻略をはじめた。州柔(つぬ)港は重要な戦略拠点であったが、豊璋は軽く見て守りを固めていなかった。

 日本の水軍が攻めて行ったとき、すでに唐の船戦百七十隻が並んで待ち構え、なすすべなく退却します。翌日百済・日本の連合軍が突っ込みますが、敵の陣形も確かめず侵入したため逆に包囲され、惨敗します。豊璋は数人と船に乗り高句麗へ逃げ去りますが、城も落ち、百済は唐に支配されてしまいます。

 「シナの南北朝時代、宋に壇道済(だんどうさい)という者がいて、手柄を立て重んじられていたが王が彼の忠義を疑い、切ってしまった。壇道済が死ぬとき、被せられた頭巾を地上に投げ、〈 すなわち汝が、万里の長城を破る  〉と叫んだ。」

 「14年後に、北魏が南宋に攻め入って来た。宋の文帝は、城に登り押し寄せてくる北魏軍を見て、〈 もし道済が生きていたら、こんなことにならなかったろうに  〉と言って嘆いたと、『宋書』が伝えている。」

 「これ以後、讒言を信じて忠臣を殺すことを、〈 汝が、万里の長城を破る  〉というようになった。」

 氏は、頼山陽の「奈(なん)すれぞ  汝自ら万里の城を壊(やぶ)りしや」を宋の故事で解説し、豊璋が福信を殺したことを指していると教えます。

 人を見る目のない将は、自分が破滅するだけでなく、国も民も破滅させてしまいます。私たち庶民は家庭や家族を破滅させないため、国のリーダーたちを見る目を養いたいものです。「人を見る目」・・いつの時代でも、誰にとっても大事なことなのに、難しいテーマです。

 残る三行は、次回に紹介します。

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世間の動きを確認

2023-01-10 13:18:17 | 徒然の記

 壁に貼ってあるカレンダーでは、今日は令和5年1月10日です。机の横に積んでいる新聞は、一番上の日付が令和4年12月28日なので、ここにはまだ新しい年が来ていません。テレビをほとんど見ませんので、14日間世間のニュースに触れていないことになります。

 シリーズのブログに熱中していると、新聞がたまるのは何時ものことで気にしませんが、新しい年が来たのにそのままだというのが気になります。12月28日の一面のトップニュースは、秋葉復興大臣が更迭され、後任に渡辺博道氏が再登板したという記事です。翌29日のトップは、辞任した薗浦議員が公民権停止3年になった記事です。

 政治資金報告書に正確な記載をしなかった薗浦氏の責任だとは言え、12月1日の不正発覚から、連日顔写真入り一面での報道なので、議員辞職と離党はマスコミが追い込んだようなものです。山際太郎経済担当相、葉梨康弘法相、寺田総務省の更迭に続く、岸田内閣の「辞任ドミノ」の流れの中にあります。

 松野官房長官の影が薄く、物足りないという記事が30日にはあります。言われてみればその通りですが、まさかこんな理由でマスコミは氏の首を取ろうとしているのでしょうか ?

  12月30日  ロシア、120発超ミサイル攻撃か ウクライナ首都で破片落下、停電も

    12月31日  イスラエル ネタニヤフ氏政権復帰 史上最右派政権

  同日   ミャンマー スーチー氏に禁錮35年  国軍統制下で最終判決

 というニュースもあります。そうかと思えば成田空港では、海外旅行者と帰省客で前年比12倍の混乱という報道です。年末年始の出入国者数は、61万8千5百人という賑わいです。政界の騒ぎをよそに、庶民は結構楽しんでいます。

 目を通して一番心を動かされたのは、「墓碑銘 2022」です。昨年亡くなった著名人の写真とプロフィールが、ページの全面を占めています。

   元首相 安倍晋三氏、     エリザベス女王2世、    元東京都知事 石原慎太郎氏

   元首相 海部俊樹氏、   元大統領 ゴルバチョフ氏、  元首席 江沢民氏

   元大統領 ラモス氏・・・

 このほかに、京セラ会長の稲盛和夫氏、デザイナーの森英恵氏、作家の西村京太郎氏、プロレスラーのアントニオ猪木氏など、たくさんの物故者がいます。いずれ自分も仲間入りすると分かっているので、感慨深く読みました。一番心に残るのは、やはり非業の死を遂げた安倍元首相です。暗殺される寸前の、応援演説の写真が使われています。

 ここまで読めば、去年の話はお終いです。世間の動きを確認したところで、また渡部氏の案内する日本の古代史に戻ります。

 ( お詫び :   操作を間違い、書きかけのブログをアップしていました。 )

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『日本史の真髄』 - 41 ( 唐の状況 )

2023-01-10 08:36:14 | 徒然の記

 本日は著書の92ページ、渡部氏が解説する「唐の状況」を紹介します。

 「高祖、太宗の後を受けた三代目の、高宗の時代である。高宗の皇后が武氏、いわゆる則天武后である。頭が良くて学問もあり、野心的な女性であった。」

 「もともとは太宗の後宮に入った女性であり、太宗の死後は尼になって寺に入っていた。ところが高宗に召されて、今度は高宗の後宮に入った。皇帝父子二代に渡って、その後宮に入り寵を得るということは破廉恥とも言えるが、女性としてはそれだけ魅力的だったということである。」

 則天武后の悪行については薄々知っていましたが、氏の解説で知識のレベルに高まりました。想像以上の野心家でした。

 「そして高宗の皇后も愛妃もすべて片付けて、ついに自分が皇后になった。高宗は病弱であったので、彼に変わって政治の実権を握り、皇帝もどうしようもなくなった。」

 「夫の高宗の死後中宗が即位したが、次の年には廃して弟の睿宗(えいそう)を立てたが、これも後で廃して皇太子の地位に下げ、自分が帝位につき聖神皇帝と称し、国名も周と改めた。」

 「シナ四千年の歴史で国を始めた女性は、彼女一人である。彼女を皇后にした病弱な高宗が、頭の上がるはずがなく、極端な恐妻家であったに違いない。」

 百済が日本に支援を求めて来たのは、則天武后が政権を完全掌握していた時で、日本・新羅の連合軍と戦ったのは、則天武后の言いなりになっていた高宗時代の唐と新羅の連合軍だったことになります。

 「それを頼山陽は、〈  怕婦(はふ)の男子是れ皇帝  〉と言ったのである。〈  怕婦(はふ)の男子  〉とは、夫人を極端に怖がる男、つまり恐妻家であり、ここでは高宗を指している。

   怕婦(はふ)の男子是れ皇帝

   佳賊(かぞく)将となりて呑噬(どんぜい)を逞しうす

 これで三行目の意味が明確になり、次は四行目です。文章をやめて、項目で列挙します。

 ・唐の軍勢を率いてやって来たのは、李勣(りせき)である。

 ・元々は匪賊で、若者時代は集団強盗をやっていたところを、高祖に見出された。

 ・高祖の下で建国のために働き、ついで太宗に仕えて手柄を立て、朝鮮半島へやって来た。

 ・偉くなった李勣が、昔話を自ら語った。

   〈  十七、八の時佳賊となり、陣に臨めばすなわち人を殺す。二十にして大将となり、甲兵(よろいをつけた兵士)をもって人を救う  〉

 氏の解説が独創的なので、そのまま紹介します。

 「佳賊は〈  男ぶりの良い賊  〉とも解釈できるが、〈桂〉には大という意味もあるので、大泥棒、大盗賊という意味に解釈しておく。このもと大盗賊の李勣は、唐の大将となり、しきりに北辺の諸国を征服した。呑噬(どんぜい)は、飲んだり噛んだりすることで、今の言葉で言えば侵略にあたる。

 「これが、〈  佳賊(かぞく)将となりて呑噬(どんぜい)を逞しうす  〉の意味である。

 頼山陽の漢詩が、残り五行となりました。次回もこの要領で氏の解説を紹介すれば、息子たちにも分かりやすいのではないかと思います。知らずに読み終えたとき、古代の戦争「白村江の戦い」を理解することになります。私の願いは、両論併記の役目をしている渡部教授の意見を読み、反日左翼学者の歴史書が氾濫する戦後の日本の歪みに気づいてくれればということです。

 自分の国の歴史や過去を批判し、ご先祖を否定する反日勢力の言に惑わされない人間になって欲しいとブログを綴っています。

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『日本史の真髄』 - 40 ( 国家存続のための、事大主義 )

2023-01-09 11:42:25 | 徒然の記

 今回は、「書き下し文」と「大意」の全文を紹介します。 

 〈「書き下し文」(頼山陽) 〉

   唐は百済を取らむと欲し

   吾は百済を復せむと欲す

   怕婦(はふ)の男子是れ皇帝

   佳賊(かぞく)将となりて呑噬(どんぜい)を逞しうす

   汝が兵食を資(たす)け汝が行を護る

   奈(なん)すれぞ汝自ら万里の城を壊(やぶ)りしや

   唐と吾と、孰(いず)れか得失

   忠義の孫子海を踏みて来たり

   長く王臣となりて王室を護る

 〈 「大 意」(徳岡氏)  〉

   唐は百済を取ろうとする

   日本は百済を復活させようとする

   恐妻家の男が唐の皇帝だ

   男ぶりのいい賊が将軍となって勝手気ままに侵攻する

   吾が国の人質であったそなた、百済の王子豊に、武器糧食の援助をして、帰国の行路を守ってやったのに

   なぜそなたは、万里の城にも匹敵すべき人材福信を殺したりしたのか

   唐と日本と どちらが得をし、どちらが損をしたか

   忠義の臣の子孫たちは海を渡って来て

   長く皇室に仕えて皇室を守ったのだ

 「書き下し文」と「大意」を読んでも何となく意味がわかるだけで、特別の感慨を生じません。しかしここに氏の解説が加わりますと、二行の言葉が輝きます。

 「蝦夷征伐で有名な大将軍阿部比羅夫(あべのひらふ)らも軍勢を連れ、兵糧を持って、百済の救援に赴いた。比羅夫が豊璋を百済に送り届けた時の軍船の数は百七十叟、兵士は五千人という。」「この情勢を頼山陽は、

  唐は百済を取らむと欲し  吾は百済を復せむと欲す、と二行で書いたのである。」「日清戦争の時も清国は、「朝鮮は昔から中国の属国である」と主張したのに対し、日本は朝鮮を独立国としておき、清国の影響を排除しようとした。これが戦争の表向きの理由であった。」

 「そして日本の援助を得ようとしていた親日派もいたし、清国に仕えようとする事大派もいたことは、七世紀でも同じである。」

 事大派(主義)というのは、力の強いものに従い身の保身を図る生き方を言いますが、大国中国と地続きの半島国だった朝鮮は、こうして国を守って来た歴史があります。善悪の話でなく、そうしなくては生き残れなかった朝鮮の宿命です。今でも韓国は大国である中国とアメリカの間に挟まり、両国の顔色を窺いながらその場しのぎの対応をしています。

 大東亜戦争に敗北し軍隊のなくなった日本に対しては、どのような対応をしているのか。「慰安婦問題」や「徴用工問題」を見るまでもなく、韓国政府は「日本が韓国を植民地化し、武力で韓国の富を収奪した」と、表向きは敵意を燃やし続けています。

 フリードリッヒ・ヘア氏が、「同じ場所に、同じことが繰り返して起こる。」と驚いていたと言いますが、天智天皇の時代も令和の現在も、韓国と日本は同じ繰り返しをしていることが分かります。氏の解説があるお陰で、私もこんなブログが息子たちに書けます。

 「では百済を攻略しようという、唐の側の状況はどうであったか。」

 次は唐に関する説明ですが、スペースがなくなりましたので次回に紹介します。

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『日本史の真髄』 - 39 ( 斉明天皇と中大兄皇子による新羅支援 )

2023-01-09 00:09:22 | 徒然の記

 「復百済   (くだらをふくす) 白村江の戦い  」・・頼山陽の 9行の漢詩を前に、どうすれば息子たちに、渡部氏の解説がうまく紹介できるか思案に暮れています。

 背景の出来事を知らなければ詩が理解できない点は、今までと同じですが、面倒なのは日本のことに加え、朝鮮の事情と中国宮廷の内情説明が付加されるところです。

  斉明天皇の6年(西暦660年)に、唐と新羅軍のため百済が滅ぼされ、義慈(ぎじ)王と妻子と家来など50余人が捕虜となり唐へ送られます。この時の様子を『日本書紀』では、次のように書いているそうです。

 「君臣みな俘(とりこ)となりて、ほぼ残れる者なし」

 ところがこの時地方にいた忠臣二人が、残兵を集めて蜂起します。武器がないため棒で戦ったと言う二人の忠臣の名前は、

    1.   西部の恩率(おにそち)であった、鬼室福信(くゐしちふくしに) ・・恩率は、百済で三番目の官位名

    2.   中部の達率(たちそち)であった、餘自信(よじしに) ・・達率は、百済で二番目の官位名

 驚いたことにこの百済軍に新羅の軍勢が敗北し、彼らの武器が百済軍の手に入ると益々百済軍は強くなり、唐軍も侵入を断念しました。百済人たちはこの二人を尊んで、佐平福信、佐平自信と呼んだと言います。「佐平」というのは、百済で一番高い官位です。

 これから先はいつものようにスペース節約のため、出来事を列挙します。

  ・鬼室福信が、この時日本へ遣いをよこした。お土産は、唐の捕虜百人余りであった。

  ・これが後に、美濃国の不破と片県に住むようになった唐人たちである。

  ・この時鬼室福信は、日本に二つの希望を伝えた。

    1.  日本に人質として来ている百済王子の豊璋(ほうしょう)を、百済に送り返して欲しい。

    2.  日本軍の援助が欲しい。

  ・鬼室福信は、捕虜として唐に連れ去られた義慈王の王子を迎えて百済王とし、王国の再建を願ったのである。

  ・斉明天皇と中大兄皇子は快く援軍要請を受け、出兵することとした。

  ・斉明天皇は九州の筑紫まで行かれたが、ここで亡くなられた。

  ・即位された天智天皇(中大兄皇子)は、百済支援の方針を継続した。

  ・百済の王子の豊璋に織冠を授け、多臣蒋敷( おおのおみこもくさ)の妹を妻として与えた。

 このようにして天智天皇は、日本の名門の娘を百済の王子に与えて縁結びをしました。氏の解説によりますと、日本の戦国時代諸侯の間にもよくあった習慣で、同盟関係を血縁で強めようという発想だと言います。日韓併合時の李王家との婚姻や、満州国独立後の満州皇帝の婚姻にも見られる形でした。  

 ここまでの氏の解説が、頼山陽の九行の漢詩の最初の二行です。背景の一部だけでも分かりましたので、次回は頼山陽の「書き下し文」と  徳岡氏 の「大意」を紹介します。  

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