ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『日本史の真髄』 - 113 ( 藤原時代の終焉 )

2023-06-09 19:48:38 | 徒然の記

 〈  第二十闋 剣不可傳 ( けんつたふべからず )  藤原時代の終焉  〉

 今回は、そのまま氏の説明を紹介します。

 「即位なさった後三條帝が最初にされた大改革は、記録所を設置し、諸国の券契 ( けんけい・券状 ) を徴収して、その真偽を検断せしめられたことである。」

 〈  第十九闋 赤白符 ( せきはくのふ )  奥州をめぐる武力抗争  〉思い出せば、帝のご意志がいかに果敢であったかがうかがえます。簡単に言いますと、諸国に出回っている契約書、手形等の真偽を検査し記録させたというのですから、宮廷経済の基本である金融政策を押さえられたと、そういう解釈ができます。

 具体的には、皇室を弱体化させている荘園についての大改革でした。

 「後朱雀帝の御世の末期、寛徳二 ( 1045 ) 年以後に新しく出来た荘園 ( 私有の墾田 ) を廃止すること。 」

 「荘園に関する立券があっても、それが明確でなかったり、国務に妨げのあるものは全て廃止すること。」

 つまり、関白頼通の時代にできた荘園を無効にすることになりますから、上は関白から下は地方の豪族まで、まさに青天の霹靂 ( へきれき ) に遭ったごとき感があったと言います。

 単なる頼通への意趣返しや思いつきでなく、大改革には理由があることを氏が説明しています。

 ・帝は皇太子の頃から、諸国の公田 ( こうでん・国家朝廷が所有している田地・畑地 ) が、宣旨・官符無しに豪族の荘園として掠め取られていることを知っていた。

 ・特に頼通が権力を奮っていた時代には、「長者頼通様の御料地」と言う理由だけで全国に荘園が作られていた。

 ・このため現地で徴税の仕事をしている国司は、仕事にならないと嘆いていた。

 ・関白の領地と言われれば、中・下級貴族である国司たちはどうすることもできなかった。

 ・黙認することによって、関白の歓心を買おうとする者さえもいた。

 ちゃんとした文書 ( 立券・券契 ) のあるはずがなく、帝は荘園の現状こそが天下の巨悪と考えられていました。これに驚いた頼通の様子を、氏が語っています。

 「頼通は荘園の券契検断の命令を聞くと、このようなことは自分の方から申し上げるべきことでした。全部没収されても当然のことですと、恐れいって天皇の処置を仰ぐに至った。」

 「皇太子になる時は、壺切剣を渡すことを拒否した頼通が、多くの所領を取り上げられるのに抵抗できず、ひたすら恐縮しているのは誠に注目すべきことである。」

 後三條帝と頼通の間にこのような話があったと、初めて知りました。渡辺氏は晩年になり頼通が穏和な人格者になったのか、老いて気力が無くなったのかと語ります。

 「一方、後三條帝も、代々由緒ある頼通のことであったから、酷い没収もなさらず、おおむね旧の領地を持つことを認められたと言う。」

 「しかし、初めて荘園券契記録所を置いたと言うことは、制度史上の画期的な出来事であった。実効は、帝の温情で大いに薄められたような形になったが、摂政・関白の上に天皇があると言うことを、明確に示す特筆すべき事件であった。」

 これこそが、藤原氏の全盛期の終わったことを示す明白な処置だったと言い、頼山陽の詩の五行と六行を解説します。

  今までは柄 ( けんりょく ) が逆に持たれたようなもので、摂関に権力があり天皇になかったが、後三條帝はその逆になっていた柄を再び取り上げることをなさった

  天にまたがって光彩を放っていた、老たる虹の精のような頼通の権力を、自らの手でばっさりと切られたのである。

 「頼山陽が大喜びでこのテーマを取り上げた姿が目に浮かぶ、」と氏は解説していますが、頼通の跡を継いだ弟の教通 ( のりみち ) は、なかなか骨っぽく、容易に天皇の言う通りにならなかったようです。例えば教通は何かにつけて、一族の氏神である春日神社の権威を高めたので、後三條帝は対抗して、清和天皇が建てられた石清水八幡宮を重んずるようにされたそうです。

 石清水八幡宮は、元来源氏の氏神であり、帝の三賢臣の一人である右大臣・源師房 ( もろふさ )  も参加したので、八満宮は盛大になり、結果として春日神社の権威の相対的な低下を招いたと言います。

 「頼通をさえ心服させた帝は、天皇御親政により皇威を示され、確実に天皇の威光が藤原氏を圧してきていた。」

 頼山陽の詩は、残り三行となりました。残る三行で、なぜ山陽は嘆きと悲しみの言葉を述べるのか、次回は渡部氏の解説を謹んで紹介いたします。

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『日本史の真髄』 - 112 ( この賢帝にして、賢臣あり )

2023-06-08 17:50:12 | 徒然の記

 〈  第二十闋 剣不可傳 ( けんつたふべからず )  藤原時代の終焉  〉

 このような状況で皇太子となった尊仁 ( たかひと ) 親王、後の後三條帝に対して、関白太政大臣頼通は、「氏の長者」の娘の腹でない皇子に、「壺切剣 ( つぼきりのつるぎ ) 」は渡せないと頑張りました。

 「尊仁親王は、子供の頃から英邁な方であった。」

 これ以後は頼通でなく、むしろ尊仁 親王、後の後三條帝に対する氏の説明に興味を覚えました。

 「七歳の時参内して後朱雀帝に拝謁した時、その進退する態度があまりにも立派であったので、そこに居合わせた者たちは、世にも稀なこととして感服したという話が残っている。」

 「こういう方であったから、頼通が壺切剣を渡さないと言った時も、〈 剣などなくてもかまわない、自分は自分を頼るだけだ  〉と、おっしゃられた。この激しい気迫を頼山陽は、書き出しの二行で示している。」

   剣壺切りは、私が「氏の長者」の娘から生まれていないため伝えるわけにゆかぬのだと、  それなら伝えてもらわなくともかまわない

   私は剣など頼りはせぬ、 私がたよりにするのは自分自身だ

 ある時罪人が逃げて、皇太子の住んでいる宮殿に逃げ込み、廷臣たちが大騒ぎしました。逮捕のため検非違使が宮殿を囲んだ時、皇太子はゆっくりと着替えをし、怪しいものは捕らえたかと検非違使の長に質問をして、捕らえたと聞くと動揺された様子もなく、自若として部屋へ戻られたそうです。

 「このような具合であったが、宮廷の内外に皇太子の味方となるべき人もなく、孤立した状態であった。それで宮臣の中には、皇太子の地位が危ないのではないかと心配する者もあった。」

 皇太子になったとはいえ、「氏の長者」の頼通に疎まれているのですから、廷臣の多くが敬遠していたと言います。

 「英邁の気質の方であったが、異母兄の後冷泉帝の治世の23年間、皇太子として自分の日のくるのを、じっと待つよりほかしようがなかった。その間にも賢臣を側に置いて学問をし、天下の政治のあり方を考えたらしい。」

 気力を無くし、嘆きつつ日々を送っても不思議でない境遇ですが、学問をしながら時を待つと言うのですから、なかなか芯の強い方です。それでも皇太子の側には三人の賢臣がいたとのことで、彼らに関する氏の説明を紹介します。

  〈 源師房 ( つねふさ ) 〉

   ・学者であり和歌も巧みで、その才識を認められ頼通の養子となり、道長の本妻の娘尊子 ( たかこ ) と結婚した

   ・後に後三條帝にも重用され、右大臣、右近衛大将 ( うこんえのたいしょう ) となった

  〈 源経信 ( つねのぶ ) 〉

   ・若手ながら博識多芸で和歌に長じ、当時藤原公任 ( きんこう ) と並び称された

   ・事に当たって鋭敏果断であり、多くの逸話を残している

  〈 大江匡房 ( まさふさ ) 〉

   ・穎悟絶倫 ( えいごぜつりん ・知恵と才気が並外れている) で、神童の誉があった

   ・八代にわたる学問の家系であったが、彼の代になり三人の天皇の師となる天才を生み出した

   ・皇太子時代の後三條帝は頼通に睨まれていたが、それだけに力を込めて皇太子に尽くし、日夜側にいて文学を論講した

 龍のような気質と才を持つ皇太子は、三人の賢臣に囲まれ、政権の座に着くまでの23年間構想を練られたそうです。

 「後冷泉帝の跡を継いで、第七十一代後三條帝として即位なさった時は、気力も学力も充実した三十五歳の壮年であった。」

 「それで関白頼通も遠慮するところがあり、新天皇の御践祚と共に引退したのである。跡を継いで摂政関白に任ぜられた頼通の弟の教通 ( のりみち ) が、本来なら立太子の時に奉るべき〈壺切剣〉を天皇に献上し、恭順の意を示した。このことを頼山陽は、次の二行でまとめている。

  「壺切剣」を頼りにされないわけは、とりもなおさずご自身が古代の宝剣「龍泉」のような方だったからである

  皇太子は誠に龍のような方であり、まだ淵の中で躍っておられるのに、すなわちまだ即位されていないうちから、天子のいますところにかかるという五彩の瑞雲が、周りに立ち込めているような感じであった

 疎んじていても、いざ即位されると遠慮して退位した頼通と、壺切剣を献上し恭順の意を表した教通を知りますと、そこにある、天皇と臣下の厳然とした違いを見せられます。俗世の実権を握り、位人心を極めても、天皇のお立場には侵すことのできない権威のあることが伝わってきます。

 ここまでで、9行詩の4行の解説を紹介しました。スペースが無くなりましたので、残る5行は次回といたします。

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『日本史の真髄』 - 111 ( 皇太子の母は、氏長者の娘であるべし )

2023-06-07 19:27:41 | 徒然の記

 〈  第二十闋 剣不可傳 ( けんつたふべからず )  藤原時代の終焉  〉

 朝廷に対する藤原一族の支配権を守るため、頼通は次のことを押し通しました。

  ・  摂政関白である藤原氏は、「氏の長者」でなければならない。

  ・  皇太子の母は、「氏の長者」の娘でなくてはならない。

  ・  天皇は、「氏の長者」の孫でなくてはならない。

 氏は説明していませんが、「氏の長者」という言葉の中に頼通の思考の核があるようです。ウィキペディアの解説が、ヒントを与えてくれます。

 〈 氏長者(うじのちょうじゃ)とは 〉

  ・平安時代以降の、氏 ( うじ ) の中の代表者の呼称である。

  ・古代日本では氏上(うじのかみ )と呼ばれていた。

  ・その氏族の中で最も官位が高い者が就任し、先祖を弔う氏社 ( うじしゃ ) 、氏寺( うじでら ) の管理権とその財源を掌握した。

  ・氏上(うじのかみ )は平安時代になると、「氏長者(うじのちょうじゃ)」と名称が変化した。

 話が横道へ逸れましたが、これを予備知識として氏の説明を読み進みます。( 該当する文字がないため、東宮妃禧子は似た字を当てています。 )

 「第六十九代後朱雀 ( ごすざく ) 天皇には、二人のヨシ子が後宮にいた。内侍 ( ないし・東宮妃 ) であった禧子 ( よしこ ) と、皇后の禎子 ( よしこ  ) である。」

 「禧子 ( よしこ ) は道長の娘であり、禎子 ( よしこ  ) は孫である。後朱雀帝ご自身も道長の孫であるから、今日から見ると、まことに奇怪な関係になる。」

 文章より、項目にしたほうが分かりやすいので、文章体を止めます。

  ・まず、皇太子妃として入台していた禧子 ( よしこ ) に、第一皇子 ( 親仁親王・後の後冷泉帝 ) が生まれた。

  ・ついで皇后の禎子 ( よしこ  ) に、第二皇子 ( 尊仁親王・後の後三條帝 ) が生まれた。

  ・後朱雀天皇は、二人の皇子が順次に皇位につくことを希望され、そのことを頼通に言っておかれた。

  ・頼通にとって第一皇子 ( 親仁親王・後の後冷泉帝 ) は、道長の娘が母であり、第二皇子 ( 尊仁親王・後の後三條帝 ) の母は、道長の孫である。

 「 皇太子の母は、「氏の長者」の娘でなくてならない。」という原則を守る頼通にとって、第七十代後冷泉帝の即位には問題がありませんでしたが、第二皇子を皇太子に立てることは気が進みませんでした。それで頼通は後冷泉帝が即位されたのちも、第二皇子の皇太子決定をのびのびにさせていたと言います。

 「ところが頼通と異腹の兄弟の能信 ( よしのぶ  ) はこれを気にして、後冷泉帝に、〈 尊仁 ( たかひと ) 親王 は、御出家でもなさるのですか。〉と聞いたため、帝は〈 そんなことはない。皇太子に立てるのだ。 〉とおっしゃって、立太子のことが急に実現したのである。」

 頼通も能信も道長の子ですが、母が違いました。頼通は道長の正妻 ( 倫子・ともこ ) の子で、能信は本妻 ( 明子・あきこ ) の子でした。

 「同じ道長の子と言っても、そこに考え方の違いがあったのではないだろうか。おそらく能信は、異母兄の頼通の鼻を明かしてやりたいというところがあったのかもしれない。」

 頼通の危機感を意に介していないのか、氏の解説は私を戸惑わせます。

 「ちなみに平安朝は複数婚であるから、正妻のほかに本妻もいた。正妻は、六礼 ( 門名、納采、親迎えなど ) の形式を踏んで娶った女性であり、本妻はこの形式によらないで娶った女性である。なにしろ複数婚だから、正妻と本妻に後世の妻と妾のような差はない。」

 「後朱雀帝の場合も、東宮時代に娶った道長の娘禧子 ( よしこ )は正妻であり、後に娶った禎子 ( よしこ  ) は本妻だったはずである。しかし皇后になったのは、本妻であった。どちらの腹の皇子も皇位についているから、その間の身分の差は感じられなかったのであろう。」

 頼通は何を四角四面に考えているのかという氏の思いが、言外に感じられます。

 「道長の場合、正妻は源雅信 ( 右大臣正一位 ) の娘であり、本妻は源高明 ( 左大臣正二位 ) であって、父の身分差はないと言ってよい。」

 「しかし正妻の男子二人 ( 頼通、教通 )が関白太政大臣従一位であるのに対し、本妻の子は 、右大臣従一位 ( 頼宗 ) 、権大納言正二位 ( 能信・長家 ) 、右馬頭 ( うまのかみ・顕信 ) であるのは、ちょっと見劣りする。」

 「これは正妻・本妻の差からきたというより、正妻の娘四人がいずれも美人でことごとく天皇の皇妃となったことによるものであろう。」

 〈  第十八闋 月無缺 ( つきにかくるなし )    藤原道長の栄華     7行詩  〉で、氏は道長の美しい四人の娘について紹介しています。

  長女彰子 ( あきらこ ) 、次女キヨ子 ( きよこ ) 、三女威子 ( たけこ ) 、四女嬉子 ( よしこ ) の4人が、それぞれ皇后、中宮、皇妃となり、平安朝の文化を隆盛にし、華やかな王朝文学の中心となるサロンの主でした。正妻・本妻の違いは言うまでもなく、男女の区別さえ超えて「女性の輝く時代」をつくっていました。

 第十八闋を思い出しますと、「頼通は、何を四角四面に考えているのか。」という氏の思いがいっそう伝わってきます。その思いが読者に伝わったところで、いよいよ頼山陽の詩の解説が始まります。

 次回も、「ねこ庭」へお越しください。

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『日本史の真髄』 - 110 ( 壺切剣 ( つぼきりのつるぎ ) )

2023-06-05 18:09:12 | 徒然の記

 〈  第二十闋 剣不可傳 ( けんつたふべからず )  藤原時代の終焉  〉

 今回も順番に、「書き下し文」と「大意」を紹介します。

 〈「書き下し文」( 頼山陽 ) 〉 9行詩

   剣伝ふ可 (べ) からずんば 伝えざるも可なり

     吾は剣を恃 ( たの ) まず吾は吾を恃む 

   太子即身即龍泉 ( りゅうせん )

   龍躍 ( おど )りて淵に在り五雲 ( ごうん ) 裹 ( つつ ) む

   倒持 ( たうじ ) の柄を再び収奪して

   天に跨 ( またが ) る老霓 ( ろうげい・虹 ) を手づから一截 ( いっせつ ) す

   光芒遍 ( あまね ) からむと欲す大八洲

   惜しむ可 ( べ ) し剣身 ( けんしん ) 忽 ( たちま ) ち自 ( みずか ) ら折れるを

   嗚呼惜しむ可し剣身 ( けんしん ) 忽 ( たちま ) ち自 ( みずか ) ら折れるを 

 〈 「大 意」( 徳岡氏 )  〉

   東宮の剣壺切りは、藤原氏の母を持たぬ私には伝えられぬと?  伝えなくともかまわぬ

   私は剣を頼りとはせぬ、 私は私自身を頼りとする

   太子はその身そのまま、 まさに竜の族だった

   龍は淵に躍り込んで、そのまわりに五色の雲がたちこめる

   逆さまになっている権力の所在を再び奪い返して

   天に長々とまたがっている老いた妖しの虹の精を、手ずから一度は切ったのであった

   かくて稜威 ( りょうい ) は大八洲 ( おおやしま ) に あまねく満ち溢れようとしていたのに

   惜しんでも余りある、剣身がたちまち自然に折れてしまったのは

   嗚呼、惜しんでも余りある、剣身が忽ち自然に折れ、この英帝が在位わずか四年で去られたとは

 渡部氏の解説は直接頼山陽の詩に入らず、時代の背景を読者に伝えるところから始まります。

 「戦後は、刀剣に対する日本人の情熱もいささか冷えたように思われるが、それまでは大したものだった。武士の魂というので、刀を使う必要のない飛行将校まで、刀を持って愛機に乗り込んだ。」

 「何しろ名剣の話は日本の建国神話とともに古く、草薙剣 ( くさなぎのつるぎ ) は三種の神器の一つになっている。刀剣崇拝は、武家時代になってさらに強化され、名剣にまつわる伝説も多い。」

 「事実であったか否かは別しとて、特別の崇敬心があったからこそ、多くの伝説も生じたのであろう。今回の闋 ( けつ ) も、その剣に関係がある。

 剣の歴史の中で、大和の刀工天国 ( あまくに ) は、画期的な名人だったそうです。彼は天武天皇の御世 ( 697~707 ) 年に活躍し、その作品の中には平家重代の宝刀小烏丸 ( こがらすまる ) や、藤原氏に伝わる壺切剣 ( つぼきりのつるぎ ) などがあると言われています。頼山陽が詠っている剣は、この壺切剣 ( つぼきりのつるぎ ) です。

 スペース節約のため、文章体をやめて項目に分けて紹介します。

 ・壺切剣は、藤原長良 ( ながら ) が長男として受け継いでいたが、これは子の基経 ( もとつね ) に与えられた

 ・基経は父長良の弟良房 ( よしふさ ) に子がなかったので、その養子となった。

 ・この良房・基経親子が、第十二闕の「髫齓 ( ちょうしん ) の天皇」で述べたように、藤原氏の栄華の基礎を築くことになった。

 ・基経は陽成、光孝、宇多三帝の御即位に関与し、「十指三たび結ぶ神璽 ( しんじ ) の綬 ( じゅ ) 」 と言われた。

 ・基経は宇多天皇に、伝統的な名剣である壺切剣 ( つぼきりのつるぎ ) を奉った。

 ・その名剣を宇多天皇は、当時皇太子であった醍醐天皇に、守刀 ( まもりがたな ) として与えられた。

 ・それ以来壺切剣は、皇太子が立てられた時に伝承されることとなった。

 ・三種の神器が皇位の象徴であるとすれば、壺切剣は皇太子の象徴である。

 ところが後三條帝が皇太子となられた時、藤原道長の長男で摂政・関白であった頼通は、皇太子に壺切剣が渡されることに反対したと言います。これ以後は、渡部氏の解説を紹介します。

 「その理由は、皇太子が藤原氏の出でないから、と言うのである。たしかに後三條帝の母は、第六十七代三条天皇の娘の祺子 ( よしこ ) 内親王であって、藤原氏の娘ではない。」

 「と言っても三條帝の母は藤原兼家の娘、つまり道長の妹の超子 ( とおこ ) である。祺子 ( よしこ ) 内親王は、三條帝と道長の娘キヨ子との間に生まれた娘であるから、道長の孫で頼通の姪である。」

 それなのになぜ頼通は、皇太子の後三條帝に壺切剣を渡さなかったのか。一族の原則を通そうとする頼通の思考を、氏が説明します。

 「後三條帝はわれわれの目から見れば、濃厚に藤原氏の血を受け継いでいる。しかしそれはあくまでもわれわれの目から見ての話であって、当時の藤原氏の実権者から見れば、皇太子の母は、藤原氏の実権者 ( 氏の長者 ) の娘でなければならなかった。」

 「そうでなければ、藤原氏の実権者の孫が天皇であるという伝統、つまり天皇の外祖父でなければならないという伝統が崩れると感じられるのだろう。」

 頑迷と見える頼通にも、それなりの理屈があると分かりました。朝廷の伝統を崩すと、藤原一族の支配体制が崩壊すると言う危機感は、女性宮家を作ろうとする反日左翼への危機感に似たものを感じます。しかし、暗殺された安倍総理を含め日本を大切にする多くの国民が守ろうとしているのは、皇室の伝統ですから、頼通と同列に並べては間違います。

 息子たちまで間違うといけませんので、深入りするのを止め、次回も渡部氏の解説を紹介いたします。

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保守を自称する方々への一言

2023-06-04 21:02:28 | 徒然の記

 渡部氏の著書『日本史の真髄』の書評が、100回を超えました。次は

 〈  第二十闋 剣不可傳 ( けんつたふべからず )  藤原時代の終焉  〉です。第二十闋に入る前に、自分の気持ちを一言申し上げようと思います。長いシリーズを続けながら、自分が氏に学んでいると考えておりますのは、だだひとつです。

 「私は師である渡部氏から、日本人の魂を学んでいる。」

 「日本人の魂とは、すなわち〈 武士 ( もののふ ) の心 〉である。」

 そう言う気持ちで氏の著書を読み、書評を続けて参りました。50回、100回、あるいは50年、100年と、切りの良いところになりますと、何かしら区切りのイベントが行われます。そこで私も100回を超えたところで、自分自身と訪問される方々へ「一言」申し上げる気持ちになりました。

 〈 武士 ( もののふ ) の心 〉と、大上段に構えても、そんなものが自分たちに何の関係があるのかと、息子たちには通じません。私が死んだ後で読んでもらえないと困りますので、大雑把な話をいたします。

 江戸時代の人口比率を調べましても、〈 武士 ( もののふ ) の心 〉が大多数の日本人に関係がないと証明しています。

  武士・・  約  7%

  百姓・・  約 85%

  町人等・・ 約  5%     ( 町人には商人と職人を含む  )

 江戸時代の人口は、3,100万人から3,300万人台で推移していたと言われていますが、別の数字もありますので分かり易いように4,000万人と仮定します。

 こうすると武士の人口は約280万人、百姓の人口は約3,400万人となります。たった280万人の「武士の心」が、どうして日本人の心になるのか。むしろ日本は3,400万人の「百姓の心」の国ではないのかと、ボウフラ君のような意見を言う人間がいます。

 こう言う人は、日本の歴史を知らず、日本人を知らない人間たちです。武士と百姓が峻別されるようになったのは、秀吉が「刀狩り」をした時からで、それ以前の百姓は戦があれば刀や槍を持ち戦争に参加していました。百姓の出身と言われている秀吉自身が、そうした半分武士の農民の出身者でした。

 だからこそ幕末に、長州の高杉晋作が「奇兵隊」を創設して以来、正規の武士以外の庶民が軍を支える力となり、日清・日露ばかりでなく、大東亜戦争でも力を発揮しました。「武士の心」は、男女の別なく、日本の隅々にまで浸透していたことの証明です。

 これ以上は面倒な話を止め、結論だけを述べます。
 
  ⚫︎「武士 ( もののふ ) の心」を失った自由民主党の議員諸氏は、保守の名前を騙るのを止め、反日左翼野党へ所属を変わりなさい。
 
  ⚫︎「武士 ( もののふ ) の心」を失った学者・評論家諸氏は、保守の名前を騙るのを止め、反日左翼勢力へ所属を変わりなさい。
 
  ⚫︎「武士 ( もののふ ) の心」を失ったネット諸氏は、保守を自称するのを止めなさい。
 
 勇気と無鉄砲は違いますが、今回私がボウフラ君から脅迫状をもらった時、自称保守の方々がどういう対応をされたのか、一目瞭然でした。
 
 「ご迷惑をおかけしますので、〈ねこ庭〉へのご訪問をお止めください。」と公表した時、それでも訪問された方々を、〈武士 ( もののふ ) の心〉を持つ人として心に刻みました。日本の伝統通り、男女の別なくご訪問頂いたことに敬服いたしました。
 
 「冥土の土産」の公表以来、自由民主党の国会議員の方は鳴りをひそめ、自由民主党の市会議員 ( 女性 ) の方が足跡を残されました。
 
 もう一度、私の結論を申します。
 
 「口先だけの保守の方は、もう自称保守をお止めなさい。」
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『日本史の真髄』 - 109 ( 恐ろしく輝く巨大な星 )

2023-06-03 18:50:31 | 徒然の記

 〈  第十九闋 赤白符 ( せきはくのふ )  奥州をめぐる武力抗争  〉

   君見ずや他年赤符を肯 ( あ ) へて剖 ( わか ) たず

   路傍に空 ( むな ) しく棄 ( す ) つニ酋 ( しゅう ) の首 

 いよいよ最後の二行になりました。安逸をむさぼる藤原一族 ( 貴族 ) と武家の対立の深まる様子が語られていきます。

 「義家を助けて、東北を平定することに大功のあった出羽俘囚長・清原武則は、従五位下、鎮守府長官に任ぜられた。俘囚が鎮守府長官になったのだから、画期的なことである。」

 「しかも元来清原氏は、出羽三郡 ( 雄勝 ・平鹿・仙北) を支配していた上に、安倍氏の支配していた奥羽六郡を新たに支配することになったのだから、陸奥・出羽にまたがる唯一の大豪族になった。」

 このままゆけば、清原氏の支配が長く続くはずだったのですが、ここでまた難題が生じました。渡部氏の説明を文章でなく、項目に分解して紹介します。

 ・武則の息子武貞には、複雑な家族関係を持つ三人の子 ( 男子 ) がいた

 ・先妻の子、後妻の連れ子、後妻との間にできた子の三人である

 ・この三人の間に内紛が生じ、新しく赴任した頼義の長男・源義家が調停役となった

 ・調停が決裂し、永保3 ( 1083 ) 年に「後三年の役」と呼ばれる戦いが勃発した

 ・結局、義家が清原氏をつぶすことになり、武貞の後妻の連れ子である男子が奥州の支配者となった

 ・武貞の後妻は最初藤原清経に嫁していたので、この連れ子は清経の遺児 ( わすれがたみ )であった

 ・藤原清経は安倍頼時 ( 元・頼良 ) の娘婿で、彼と共に白符を用いて官物を徴収し、源頼義を苦戦させた敵将で、頼義が首を刎ねていた

 ・義家が新しい支配者に決めたこの子が、後の藤原清衡 ( きよひら ) であり、平泉文化の建設者となった

 ここで氏が、ため息のような一文を書いています。

 「歴史は皮肉だ。源頼義を助けて安倍氏を滅ぼしたのは清原氏なのに、頼義の長男義家が、父が殺した藤原清経の子を全奥州の支配者にするのだから。」

 「後三年の役」も決して楽な戦いでなく、大雪と、飢えと寒 ( こご )えに苦しめられ、最初は大敗します。佐兵衛尉 ( さひょうえのじょう ) として都の警護に当たっていた弟の義光は、兄義家の苦戦を聞き助けに行く許可を求めました。しかし朝廷が許可を与えなかったため、彼は官を辞して兄の元に駆けつけたそうです。

 「義家は弟の援軍を見て、涙を流して喜び、父頼義が生き返って現れたようだと言って喜んだと言う。そして兄弟力を合わせて、清原氏を金沢の柵で攻め滅ぼしたのである。それで再び奥州が鎮まり、義家は上申書を朝廷に出して言った。」

 「清原一族の騒乱は、先の安倍一族の罪に劣りません。幸に今回は、兵士や食料の徴発を朝廷にお願いしないで平定することができました。何とぞ追討の官符を下さいますように。賊将の首を献上しましょう。」

 ところが朝廷では「後三年の役」は「私闘」であるとして、官符も下さず、平定の功も賞さなかったので、義家はせっかく取った清原一党の首を、路傍に捨ててしまいました。部下に対する恩賞は、父同様に義家の自腹でした。このところを、頼山陽は次の二行でまとめています。

   君見ずや他年赤符を肯 ( あ ) へて剖 ( わか ) たず

   路傍に空 ( むな ) しく棄 ( す ) つニ酋 ( しゅう ) の首 

 朝廷はどうしても義家に正式の令書を出さず、恩賞も与えなかった。それで義家は怒って、献上しようとしていた二人の敵将の首 ( 清原武衡・家衡 ) を道端に捨てることになってしまった・・という意味です。

 「義家は八幡太郎のことで、武士の神様のように尊敬された人である。弓の巧みさは人間技でないとされ、和歌も『千載和歌集』に採録されるほどであった。公家の安逸と源氏の奮闘の対比が鮮やかである。」

 こう言って氏は頼山陽の歌を賞め、第十九闋を終わっていますが、私は息子たちのため、第十八闋の頼山陽の詩と渡部氏の解説を再度紹介します。その方が変貌する歴史の流れがよく分かる気がいたします。

  日月並び缺けて天度 ( てんど ) 別 ( わか ) る  

  別に大星 ( だいせい ) の光の殊絶 ( しゅぜつ ) せる有り  

 「天運 ( てんど ) は別の方向に動き出してしまった。その方向には、日でも月でもない巨大な星で、恐ろしく輝くのが出現して来たのである」 

 「〈 日 〉を皇室、〈 月 〉を藤原氏 ( 公家) とすれば、〈 星 〉は〈 将星 〉すなわち武家、特に征夷大将軍である。奥州征伐に源義家 ( よしいえ ) が出現し、世は一転して武家社会へと向かうことをさしている。」

 反日左翼政党と自民党内の反日リベラルの勢いが翳り、国を愛する保守政治家が現れ、輝く巨大な星となって欲しいと、やはり私は今の日本に重ねて考えます。次回は、

 〈  第二十闋 剣不可傳 ( けんつたふべからず )  藤原時代の終焉  〉

 嬉しいことに次回の副題には「終焉」という言葉が使われています。「反日左翼時代の終焉」と、私にはそのように読めますが、はたしてどうなるのでしょうか。

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『日本史の真髄』 - 108 ( 公家の安逸と源氏の健闘 )

2023-06-02 15:33:52 | 徒然の記

  〈  第十九闋 赤白符 ( せきはくのふ )  奥州をめぐる武力抗争  〉

 渡部氏の解説に、心が惹かされます。

 「奥州の状況がこんな時だったのに、京都の方ではどうだったのであろうか。貴族たちは、大邸宅を建てることを競っていたのである。道長の長男の頼通のその贅沢は、父以上のものがあった。彼の作った高陽院 ( かやのいん ) は、『栄華物語』にも、〈華麗比なし〉と書かれている。」

 頼通の作った平等院鳳凰堂は、10円硬貨の表面に刻まれ、国宝建築として国民の多くが知っています。贅沢も規格外になりますと、時の経過で国の宝となり、国民に親しまれるのですから不思議な魔法みたいです。

 「彼の弟の教通 ( のりみち ) も、驕侈 ( きょうし ) の点では父にも兄にも負けていなかった。彼の造った二條第 ( にじょうだい ) は、〈 広壮を極む〉と言われた。あまり立派なので兄の頼通も不愉快に思い、自分の息子の師実 ( もろざね ) に、〈 大きな私宅を構えて街並みを一杯にしてしまうのは、程度を超えたものではなかろうか 〉と言った。」

 すると息子の師実が次のように答え、頼通がうなづいたと言いますから、落語でも聞いているような気持ちになります。

 「父上のおっしゃられる通りですが、一族の人間のやることですから、別に文句を文句を言うことではないでありませんか。」

 「これを聞いて父親の頼通は、それもそうだなとうなづいた。というわけで上級貴族たちは、競走で雲に届くような大邸宅を建て始めたと言う。」

 都でこのような私邸の建築競争をやっているちょうどその頃、東北では、源頼義が援兵も食料の補給もなく苦戦していました。もちろん頼義は何度も食料の運輸を上申し、兵士を徴発する官符 ( あかふ ) を賜るよう願い出ていたと言います。

 「官符は出ても一向にききめがなく、食料も届かず兵隊も来ない。出羽守・源兼長も全く出兵する気がない。一方貞任の方は、白符を用いて徴発し、ますます勢いが盛んである。こうした狡猾な北方の敵 ( 黠胡・ かつこ ) を、どうして頼義は討つことができようか。この状況を頼山陽は、次の三行でまとめた。」

  高位の人たち ( 五侯 ) の邸宅は雲に連なるように豪華なものが、次から次へと建てられている

  それなのに東北の遠征軍に対して、兵士や食料の途絶えていることは一向に省みない

  鎮守将軍は一体、何を頼りにして狡猾な北方の蛮族 ( 胡 ) を征伐することができようか

 並の将軍でしたら、遠征を断念するところです。しかるに朝廷の方では、平定が進まないのは頼義の責任であると考え、康平5 ( 1062 ) 年、彼の任期が切れると解任し、代わりに高階経重 ( たかしなのつねしげ ) を任命しました。

 現地の事情を知らないまま軍事の判断を下すと言うのですから、驚いてしまいます。しかしよく考えてみますと、現在の私たち国民も政府も、似たようなことをしています。危険極まりない国際社会、特に狡猾な隣国の無謀さに気づかず、「平和憲法を守れ」「日本の再軍備を許すな」「戦争だけはしてはならない」と、国の守りを軽視し続けています。

 軍拡競争と言われようと、狡猾な敵から国を守るには、同等の武力行使ができる体制が要ります。「やられたらやりかえす」「攻撃されたら倍返しする」と、こういう気概が戦争を防止する事実も、忘れてはいけません。平和呆けした愚かな朝廷 ( 今で言うなら政府 ) について、氏が間違いを指摘します。

 「この辺が、当時の朝廷の甘いところであった。武士たちは頼義の威名を慕って集まっているのであるから、経重の指揮を受けようとしない。それで経重はやむをえず、なすことなく京都に帰る羽目になった。」

   第十九闋の詩は1960年前の出来事ですが、私は現在の日本の状況と重ねて読んでいます。

 「頼義は朝廷に頼るわけにいかないことを知り、援軍を出羽の俘囚の酋長である清原光頼 ( みつより ) と武則 ( たけより ) に求めた。最初のうち二人はなかなか協力しなかったが、頼義が自腹を切り何度も珍しい宝物を贈ったので、二人はようやく説得され、一万余の軍勢を率いて頼義を加勢することになった。」

 加勢は死の覚悟無しにできませんから、二人の決断は宝物 ( 金銭 ) に目が眩んだと言うより、自らの懐を痛めても戦おうとした頼義の気概への共感だったのではないでしょうか。

 「と言っても、戦いは簡単に終わったわけでない。平野にまた城攻めに激戦を重ねたのち、ようやく厨川 ( くりやかわ ) 、ウバ戸の柵を囲んで、敵を全滅させることができたのである。貞任や経清の首は箱に入れて京へ送り、家任 ( いえとう ) ・宗任 ( むねとう ) らを捕虜にした。」

 その功によって頼義は正四位下、伊予守に任ぜられます。彼が鶴岡八幡宮を造ったのは、この時だそうです。しかし他の功労者には朝廷から恩賞の沙汰がなく、頼義の願い文は朝廷での議論が定まりませんでした。

 「そのことを要請した頼義の上疏文 ( 天子に差し出した書状 ) は、今日なお人の心を動かす名文である。」

 こう言って渡部氏が、その一部を紹介しています。

 「虎狼の俗 ( 官に反対する人間 ) に向かい、甲冑をまといて、もって千里の道に赴き、矢石 ( しせき ) に交わりて、もって万死の命を忘れ・・・」

 名文なのかどうか見分ける力はありませんが、伝わってくる頼義の熱い思いがあります。

 「こうして戦った者たちに、恩賞がないのだ。それで頼義は私物を与えたのである。そのような行為に対して、部下が感激しないはずはない。朝廷は当てにならないが、頼義は当てになる。かくして源氏は、東北・関東に強固な基盤を築き始めるのである。」

  結局頼義は、金で人心を掴んだ。金権政治家の走りではないかと、そんな誤解をする人たちのため、説明をしておきます。金銭ほど人間の姿を映すものは、ありません。強欲、吝嗇、狡猾、卑劣などと言う言葉が、金に目のくらんだ人間を表すときに使われます。逆に言いますと、金銭は人間にとってそれほど大切なものであると言うことになります。

 大事なのは、持っている金銭をその人がどのような使い方をするか、ここにかかっている気がします。自分の金は少しも使わず、公金を浪費する者を褒める人はいません。大切なお金をどのような使い方をするのか、高名な人物でも庶民でも、人物評価の判断をここにおいている人間は沢山います。彼が自腹を切っているのか、公金を使っているのか、区別のつかない人間はいません。

 金権腐敗政治をする政治家が尊敬されない理由が、ここにあります。自由民主党の政治家が槍玉に上がることが多いのですが、野党の政治家も同じでないかと考えています。大手マスコミが報道するかしないかで、金権腐敗政治家が決められていますが、ネット世界が進化すれば世相も変わる気がします。

 頼山陽の七行詩の解説を、五行まで紹介しました。余計なことを述べスペースを使いましたので、残る二行は次回といたします。

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『日本史の真髄』 - 107 ( 赤符と白符 )

2023-06-02 00:22:12 | 徒然の記

  〈  第十九闋 赤白符 ( せきはくのふ )  奥州をめぐる武力抗争  〉

 ここから、朝廷による討伐が開始されます。

 「永承6 ( 1051 ) 年に陸奥守・藤原登任 ( なりとう ) は、秋田城介・平重道を先鋒として、数千の兵を率いて安倍頼良を討伐しようとした。しかし、鬼切部で戦って大敗してしまった。」

 「この知らせを受けた朝廷は事態を重視し、源頼義を陸奥鎮守府将軍に任命して討伐させることにした。頼義は元鎮守府長官であった源頼信 ( よりのぶ ) の長男で、珍毅にして武略多く、騎射をよくして将師の器ありとされ、坂東 ( ばんどう ) 武士の信頼が厚かったから、まさに適任であった。」

 陣を整え、これから頼義が討伐に向かおうとする時予定外の事態が発生します。

 「上東院彰子( あきらこ ) 、道長の娘で一條帝の后、後一條帝・後朱雀帝の母の病気平癒祈願の大赦 ( たいしゃ ) があって、安倍頼良の罪も許されることになった。」

 平安時代ならではの話なのでしょうか。頼良は大いに喜び、新しい鎮守府将軍の源頼義と名前が同音になることを遠慮して、頼良を頼時と改めます。そして頼義によく服従したので、東北の地は再び平穏になろうとしました。しかし頼義が任務を終えて京へ帰る途中に、また事故が起こり、前九年の役という長期戦が始まります。

 「頼義が、帰途阿久利川 ( あくとがわ )に宿営した時、夜に藤原光貞の陣が襲われ人馬が殺傷された。捕らえた者を問い糺して見ると、頼時 ( 元・頼良 ) の子の貞任 ( さだとう ) の家来であるらしい。( 実際には、これは光貞の推測であり、証拠不十分というべきものであった。)」

  しかし貞任の仕業と信じた頼義は、貞任を捉えようとします。すると今まで頼義に心服していた頼時 ( 元・頼良 ) が、わが子のために意を翻しました。

 「不才の子でも、居ながらにしてその死を見るわけにはいかない。」というのが理由でした。彼は一族を挙げて、頼義と戦うことになります。だが彼は、頼義に味方した別の俘囚の酋長・安倍富忠軍の矢に当たって死んでしまいます。

 「しかし息子の貞任は、父の死後も敢然と戦い続けた。彼は厨川邑 ( くりやかわむら・現在の盛岡あたり ) にいて、厨川次郎 ( くりやかわ じろう ) と称し、容貌魁夷 ( かいい ) 、色白で身長は六尺 ( 180センチ ) を超え、腰の周り7尺8寸という力士のような体の男だった。」

 「父が死んだ天喜5 ( 1057 ) 年の11月、四千余の精兵を率いて頼義の千八百余人を大雪の中で攻撃し、徹底的に破った。」

 頼義は壊滅的打撃を受け、長男の八幡太郎義家のほか藤原景道 ( かげみち ) など6騎と僅かの従兵のみとなった。大将頼義の馬も射倒され、彼も生き残った者たちの力戦によりようやく虎口を脱したと言います。

 戦いの様子を詳しく紹介しているのは、頼山陽の詩が、奥州で苦戦している武士たちと、都で優雅に暮らす貴族 ( 藤原氏 ) たちの危機意識の低さを詠っていますので、詳述の方が息子たちの理解を助けるのでないかと思うからです。

   赤符 ( せきふ ) を用うる無かれ 白符 ( はくふ ) を用いよ 

      白符は憑  ( よ ) る有り 赤符は無しと 

   五侯の第宅 ( ていたく ) は雲に連なりて起こる

   省 ( かえり) みず東征は運輸を絶つを

   将軍何に頼 ( よ ) りて黠胡 ( かつこ ) を撃たん

   君見ずや他年赤符を肯 ( あ ) へて剖 ( わか ) たず

   路傍に空 ( むな ) しく棄 ( す ) つニ酋 ( しゅう ) の首 

 山陽に七行詩についての説明が、ここから始まります。

 「貞任はますます勢力を得、諸郡に使者を出して、私符を用いて官物を徴収した。衣川関の外に数百の武装兵を出し、宮廷に収納されるべきものを、自分の方に取り上げたのである。この時、〈 白符を用うべし、赤符を使うべからず 〉と命じたのである。」

 氏の説明によりますと、符とは中央官庁から地方官庁へ下す公文書のことで、こうした公文書には大きな朱印が押してあるから「赤符」と言われ、地方の豪族が勝手に出す令書には朱印が無いから「白符」と呼ばれたのだそうです。息子たちのためには、政府日銀が発行する日銀通貨 ( 赤符 ) と、地域内だけで使われている地域通貨 ( 白符 ) だと言う方が分かり易い気がします。

 「陸奥六郡は安倍氏の固有の支配地として黙認されていたが、衣川関以南において白符で官物を徴収するのは、律令国家に対する公然たる挑戦である。こんなことをされても、白符を使っている方に信頼度があるため、源頼義はなんともできなかった。この状況を頼山陽は、次の二行でまとめている。」

  京都から来る朱印付きの文書 ( あかふ ) などの言うことを聞くことはない、俺の出す文書 ( 白符 ) の方が大切なんだぞ

  俺の出す文書 ( 白符 ) の方には信頼性があるが、官符 ( 赤符 ) には力がないのだから

 今回はここまでとし、三行目以降の解説は次回以降に紹介いたします。

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