〈 第二十闋 剣不可傳 ( けんつたふべからず ) 藤原時代の終焉 〉
今回は、そのまま氏の説明を紹介します。
「即位なさった後三條帝が最初にされた大改革は、記録所を設置し、諸国の券契 ( けんけい・券状 ) を徴収して、その真偽を検断せしめられたことである。」
〈 第十九闋 赤白符 ( せきはくのふ ) 奥州をめぐる武力抗争 〉を思い出せば、帝のご意志がいかに果敢であったかがうかがえます。簡単に言いますと、諸国に出回っている契約書、手形等の真偽を検査し記録させたというのですから、宮廷経済の基本である金融政策を押さえられたと、そういう解釈ができます。
具体的には、皇室を弱体化させている荘園についての大改革でした。
「後朱雀帝の御世の末期、寛徳二 ( 1045 ) 年以後に新しく出来た荘園 ( 私有の墾田 ) を廃止すること。 」
「荘園に関する立券があっても、それが明確でなかったり、国務に妨げのあるものは全て廃止すること。」
つまり、関白頼通の時代にできた荘園を無効にすることになりますから、上は関白から下は地方の豪族まで、まさに青天の霹靂 ( へきれき ) に遭ったごとき感があったと言います。
単なる頼通への意趣返しや思いつきでなく、大改革には理由があることを氏が説明しています。
・帝は皇太子の頃から、諸国の公田 ( こうでん・国家朝廷が所有している田地・畑地 ) が、宣旨・官符無しに豪族の荘園として掠め取られていることを知っていた。
・特に頼通が権力を奮っていた時代には、「長者頼通様の御料地」と言う理由だけで全国に荘園が作られていた。
・このため現地で徴税の仕事をしている国司は、仕事にならないと嘆いていた。
・関白の領地と言われれば、中・下級貴族である国司たちはどうすることもできなかった。
・黙認することによって、関白の歓心を買おうとする者さえもいた。
ちゃんとした文書 ( 立券・券契 ) のあるはずがなく、帝は荘園の現状こそが天下の巨悪と考えられていました。これに驚いた頼通の様子を、氏が語っています。
「頼通は荘園の券契検断の命令を聞くと、このようなことは自分の方から申し上げるべきことでした。全部没収されても当然のことですと、恐れいって天皇の処置を仰ぐに至った。」
「皇太子になる時は、壺切剣を渡すことを拒否した頼通が、多くの所領を取り上げられるのに抵抗できず、ひたすら恐縮しているのは誠に注目すべきことである。」
後三條帝と頼通の間にこのような話があったと、初めて知りました。渡辺氏は晩年になり頼通が穏和な人格者になったのか、老いて気力が無くなったのかと語ります。
「一方、後三條帝も、代々由緒ある頼通のことであったから、酷い没収もなさらず、おおむね旧の領地を持つことを認められたと言う。」
「しかし、初めて荘園券契記録所を置いたと言うことは、制度史上の画期的な出来事であった。実効は、帝の温情で大いに薄められたような形になったが、摂政・関白の上に天皇があると言うことを、明確に示す特筆すべき事件であった。」
これこそが、藤原氏の全盛期の終わったことを示す明白な処置だったと言い、頼山陽の詩の五行と六行を解説します。
今までは柄 ( けんりょく ) が逆に持たれたようなもので、摂関に権力があり天皇になかったが、後三條帝はその逆になっていた柄を再び取り上げることをなさった
天にまたがって光彩を放っていた、老たる虹の精のような頼通の権力を、自らの手でばっさりと切られたのである。
「頼山陽が大喜びでこのテーマを取り上げた姿が目に浮かぶ、」と氏は解説していますが、頼通の跡を継いだ弟の教通 ( のりみち ) は、なかなか骨っぽく、容易に天皇の言う通りにならなかったようです。例えば教通は何かにつけて、一族の氏神である春日神社の権威を高めたので、後三條帝は対抗して、清和天皇が建てられた石清水八幡宮を重んずるようにされたそうです。
石清水八幡宮は、元来源氏の氏神であり、帝の三賢臣の一人である右大臣・源師房 ( もろふさ ) も参加したので、八満宮は盛大になり、結果として春日神社の権威の相対的な低下を招いたと言います。
「頼通をさえ心服させた帝は、天皇御親政により皇威を示され、確実に天皇の威光が藤原氏を圧してきていた。」
頼山陽の詩は、残り三行となりました。残る三行で、なぜ山陽は嘆きと悲しみの言葉を述べるのか、次回は渡部氏の解説を謹んで紹介いたします。