ねこ庭の独り言

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溜まっている千葉日報新聞 - 8 ( 上原登志江さんの平和活動 )

2025-01-16 14:12:15 | 徒然の記

   1.  共同通信社の記事配信先    2.  上原登志江さんの平和活動

 上原登志江さんは一般的に言われる有名人でないため、ウィキペディアで経歴を探しても出てきません。

 令和6年12月16日の千葉日報新聞で、「特攻で戦死の兄忘れられず」と語っていた登志江さんの写真を見た時、普通の主婦の方なのだろう思っていました。

 しかし特攻隊員として亡くなった上原良司氏が多くの新聞で取り上げられ、登志江さんの言葉と写真が掲載されているのを見て、どのような人なのかが知りたくなりました。

 令和5年記事で、断片的に語られる登志江さんの情報を集めてみました。

  ・登志江さんは、長野県七貴村(現池田町)で、開業医だった父の上原寅太郎さんと母与志江さんの、3男2女の次女として生まれた。

  ・登志江(93)さんは、長男の良春さん、次男の龍男さん、三男の良司さんに長女の清子さんの5人兄弟の末っ子である。

  ・三人の兄は戦死し、現在生きているのは姉の清子さんと登志江さんの二人だけである。登志江さんは結婚している。

  ・この時代の家庭には珍しく、上原家には膨大な量のスナップ写真が残っている。たとえば中国に軍医として出征していた父の寅太郎さんに送るため昭和13年春、安曇野で撮られた写真など。

  ・こうした写真群からは、豊かで幸福だった家族の生活が伝わってくる。

  ・兄良司さんは、「自由主義者」を自認しながら航空特攻で戦死。

  ・戦没者の遺稿集『きけ わだつみの声』に「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後姿は淋(さび)しいですが、心中満足で一杯です」などと記した遺書が掲載され、読み継がれてきた

  ・しかし良司さんが家族に、「死んでも靖国には行かない」と話していたことや、良司さんを含む3兄弟が戦死していたことはあまり知られていない。

 記事からも推察されますが、登志江さんはいわゆる左翼系の平和活動家でなく、有名になった兄良司さんの妹として注目されていたようです。

 良司さんの母校慶應大学にある二つの組織や、中央大学全学連携教育機構とのつながりも、ここから生まれているようです。登志江さんが自ら近づいたというより、当該団体の方が、平和の「語り部」としての彼女を重要視したのではないかと思われます。

 詳しく説明するとまた長くなりますので、3つの組織の紹介は省略しますが、いずれの組織も教授と学生が主体で、戦争の事実を検証・研究し、今後の平和活動に生かそうとしています。
 
 中央大学全学連携教育機構に対して登志江さんは、彼らの研究の場所として自宅を開放し、兄たちが残している膨大な遺品 ( 日記、ノート、アルバム、出版物、収集品等 ) を提供しています。
 
 登志江さんは座談会に参加したり、展示会に遺品を寄贈したりする中で、「死んでも靖国には行かない」という良司氏の言葉を話したのではないかと推察します。
 
 平和活動家の教授が注目し、マスコミが大きく取り上げ、瞬く間に良司氏が再度有名になったのではないでしょうか。結果として、左翼系マスコミの筆頭である共同通信社の平和宣伝に使われています。
 
 亡くなった兄の言葉を世間に広めることが、戦争を無くすことにつながるのならと、おそらく登志江さんは善意の気持ちから、周りに集まってくる人々に協力しているのではないかと思われます。
 
 前回紹介した各社の記事の最後に、( 登志江さんの提供による ) という注釈の書かれていたことが思い出されます。せっかく良司氏が、家族以外に語っていなかった言葉なら、そのまま自分の心に刻んでおけばよかったのに・・・
 
  ・小さな親切、大きな迷惑
 
 申し訳ないことですが、「ねこ庭」からみれば、登志江さんの行為はこのようになる気がしました。「驚きというより、意外感に打たれました」と前回述べたのは、こういう意味です。
 
 「溜まっている千葉日報新聞」の、1 番目の記事の検討が終わりました。次回は2番目の記事です。
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