1. 共同通信社の記事配信先 2. 上原登志江さんの平和活動
上原登志江さんは一般的に言われる有名人でないため、ウィキペディアで経歴を探しても出てきません。
令和6年12月16日の千葉日報新聞で、「特攻で戦死の兄忘れられず」と語っていた登志江さんの写真を見た時、普通の主婦の方なのだろう思っていました。
しかし特攻隊員として亡くなった上原良司氏が多くの新聞で取り上げられ、登志江さんの言葉と写真が掲載されているのを見て、どのような人なのかが知りたくなりました。
令和5年11月の毎日新聞の記事で、断片的に語られる登志江さんの情報を集めてみました。
・登志江さんは、長野県七貴村(現池田町)で、開業医だった父の上原寅太郎さんと母与志江さんの、3男2女の次女として生まれた。
・登志江(93)さんは、長男の良春さん、次男の龍男さん、三男の良司さんに長女の清子さんの5人兄弟の末っ子である。
・三人の兄は戦死し、現在生きているのは姉の清子さんと登志江さんの二人だけである。登志江さんは結婚している。
・この時代の家庭には珍しく、上原家には膨大な量のスナップ写真が残っている。たとえば中国に軍医として出征していた父の寅太郎さんに送るため昭和13年春、安曇野で撮られた写真など。
・こうした写真群からは、豊かで幸福だった家族の生活が伝わってくる。
・兄良司さんは、「自由主義者」を自認しながら航空特攻で戦死。
・戦没者の遺稿集『きけ わだつみの声』に「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後姿は淋(さび)しいですが、心中満足で一杯です」などと記した遺書が掲載され、読み継がれてきた
・しかし良司さんが家族に、「死んでも靖国には行かない」と話していたことや、良司さんを含む3兄弟が戦死していたことはあまり知られていない。
記事からも推察されますが、登志江さんはいわゆる左翼系の平和活動家でなく、有名になった兄良司さんの妹として注目されていたようです。
良司さんの母校慶應大学にある二つの組織や、中央大学全学連携教育機構とのつながりも、ここから生まれているようです。登志江さんが自ら近づいたというより、当該団体の方が、平和の「語り部」としての彼女を重要視したのではないかと思われます。