枯れきった感じ。
でも、どこかで会ったようななつかしい後ろ姿。
やはり、本田かな。
声をかけてみようかな。まちがいだったらバツがわるいな。
東京の妻に携帯を入れた。
本田らしいけど。
どうしょう?
声を掛けてみようかな。
そんなことも、ひとりで判断できない。
東京の自宅は留守電になっていた。
妻は品川界隈でショッピングでもたのしんでいるのだろうか?
「本田さんでしょうか? 石裂ですが」
「声をかけてくれて、ありがとう。このところなんどか会ってやんすね」
老人はやはり本田正だった。
むこうでも気づいていたのだ。
声を掛けてよかった。
無視をつづけたら……。
なぜ声をかけてくれないのだろう。
と彼は傷ついたことだろう。
勇気をだして声をかけてよかった。
ところが……。
本田が気をわたしのほうにそらせたので、猫が爪をたてた。
本田は手のひらにイカのくん製をのせていた。
細く裂いてあった。
それを猫がとろうとして爪をたてたのだ。
本田の手の平にうっすらと血がにじんだ。
きっと、猫の爪が切り裂いたのだ。
わたしは恐縮してあやまりながら、いつも持参しているバンドエイドをわたした。
「大丈夫。だいじょうぶ。この子の親にもよく爪を立てれやんした」
「ずいぶん長いこと猫に餌をやっているのですね」
「野良猫をみているとカワイソウで。うちでも1匹捨て猫がまよいこんできたのを飼ってやんす」
やっとふりかえることができた。
本田が手にしたイカをたべおわった猫は、植え込みにもどっていった。
黒猫がおおかった。
なかには、どうみても捨てられて間もないといったペルシャ猫もまじっていた。
まだ高貴さがぬけきらず、ほかの猫になじめずにいるようすだった。
純白であったはずの体毛が薄汚れて利久ネズミ色に変色しているのは涙を誘う。
「かわいそうですよね。捨てられて、すっかりおちこんでいるでしょう」
わたしの視線がペルシャ猫にとどまっているのを察して本田がいった。
ペルシャ猫を抱き抱えた。
ひよこっとすくいあげるように抱き上げた。
猫はなれていた。
一声ニャァと鳴いて本田の胸に頭をこすりつけた。
かわいいものだ。
周りの先住猫とうまくいっていないので、本田がだきあげてかわいがっている気配がつたわってきた。
そっと下におくとおなかをみせてねころがってしまった。
「寒いから、正面入り口のベンチに行くかい」
やさしい音声だった。
この「かい」という妻の故郷の勧誘の語尾がすきだ。
少しだけ語尾をあげると、おずおずと誘っている雰囲気がよくでる。
「こんなふうに、また会えるとは思ってもみませんでした」
「石裂さんは、東京でがんばってるね」
「思うようにいきません。小説ではなくて、民俗学の知識をいかした随想ばかり書いていて、はずかしいですよ」
あれからどれだけの歳月が流れたというのか?
本田は、わたしが妻と結婚してこの街に住みつくようになった年に知り合った。
同人誌「現代」を出した年だ。
本田は、旧制の栃木中学の出身だった。
そのころプロ野球で活躍していた後輩の田名網について書いてくれたのだった。
随筆だった。格調の高い文体におどろいたものだった。
そのころすでに、かなりの歳を重ねていた。
ヨーカドーのフロントのベンチに腰をおろしていると屋根の上のほうで恐竜でも吼えているような風音がする。
この建物が巨大な恐竜となって、のしのしと街に襲いかかるのではないか。
そんな畏怖をともなった咆哮だ。
いつからこの街ではこんな烈風が夕暮れちかくなると吹き荒れるようになったのだろう。
ともかく、日光のほうから吹いてくる黒髪颪だ。
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でも、どこかで会ったようななつかしい後ろ姿。
やはり、本田かな。
声をかけてみようかな。まちがいだったらバツがわるいな。
東京の妻に携帯を入れた。
本田らしいけど。
どうしょう?
声を掛けてみようかな。
そんなことも、ひとりで判断できない。
東京の自宅は留守電になっていた。
妻は品川界隈でショッピングでもたのしんでいるのだろうか?
「本田さんでしょうか? 石裂ですが」
「声をかけてくれて、ありがとう。このところなんどか会ってやんすね」
老人はやはり本田正だった。
むこうでも気づいていたのだ。
声を掛けてよかった。
無視をつづけたら……。
なぜ声をかけてくれないのだろう。
と彼は傷ついたことだろう。
勇気をだして声をかけてよかった。
ところが……。
本田が気をわたしのほうにそらせたので、猫が爪をたてた。
本田は手のひらにイカのくん製をのせていた。
細く裂いてあった。
それを猫がとろうとして爪をたてたのだ。
本田の手の平にうっすらと血がにじんだ。
きっと、猫の爪が切り裂いたのだ。
わたしは恐縮してあやまりながら、いつも持参しているバンドエイドをわたした。
「大丈夫。だいじょうぶ。この子の親にもよく爪を立てれやんした」
「ずいぶん長いこと猫に餌をやっているのですね」
「野良猫をみているとカワイソウで。うちでも1匹捨て猫がまよいこんできたのを飼ってやんす」
やっとふりかえることができた。
本田が手にしたイカをたべおわった猫は、植え込みにもどっていった。
黒猫がおおかった。
なかには、どうみても捨てられて間もないといったペルシャ猫もまじっていた。
まだ高貴さがぬけきらず、ほかの猫になじめずにいるようすだった。
純白であったはずの体毛が薄汚れて利久ネズミ色に変色しているのは涙を誘う。
「かわいそうですよね。捨てられて、すっかりおちこんでいるでしょう」
わたしの視線がペルシャ猫にとどまっているのを察して本田がいった。
ペルシャ猫を抱き抱えた。
ひよこっとすくいあげるように抱き上げた。
猫はなれていた。
一声ニャァと鳴いて本田の胸に頭をこすりつけた。
かわいいものだ。
周りの先住猫とうまくいっていないので、本田がだきあげてかわいがっている気配がつたわってきた。
そっと下におくとおなかをみせてねころがってしまった。
「寒いから、正面入り口のベンチに行くかい」
やさしい音声だった。
この「かい」という妻の故郷の勧誘の語尾がすきだ。
少しだけ語尾をあげると、おずおずと誘っている雰囲気がよくでる。
「こんなふうに、また会えるとは思ってもみませんでした」
「石裂さんは、東京でがんばってるね」
「思うようにいきません。小説ではなくて、民俗学の知識をいかした随想ばかり書いていて、はずかしいですよ」
あれからどれだけの歳月が流れたというのか?
本田は、わたしが妻と結婚してこの街に住みつくようになった年に知り合った。
同人誌「現代」を出した年だ。
本田は、旧制の栃木中学の出身だった。
そのころプロ野球で活躍していた後輩の田名網について書いてくれたのだった。
随筆だった。格調の高い文体におどろいたものだった。
そのころすでに、かなりの歳を重ねていた。
ヨーカドーのフロントのベンチに腰をおろしていると屋根の上のほうで恐竜でも吼えているような風音がする。
この建物が巨大な恐竜となって、のしのしと街に襲いかかるのではないか。
そんな畏怖をともなった咆哮だ。
いつからこの街ではこんな烈風が夕暮れちかくなると吹き荒れるようになったのだろう。
ともかく、日光のほうから吹いてくる黒髪颪だ。
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