背中炙り峠にある楯跡などの調査の一環として、尾根上の「堀切」を確認に出かけました。途中、4月15日に行われた畑沢祭の日に赤飯をお土産に下さった古瀬K氏御夫婦を訪ねました。清水畑でのことです。
私が調査している話をしたところ、古瀬K氏は
「あそごさは、一の切、二の切、三の切 ど言う珍らすえ名前のごてるなあ」
「そいづは、その奥に【ほっきり】というのがあっからだ」
とおっしゃいました。
その言葉に私はびっくりしました。「えー、【ほっきり】だがー」。途端に私の鈍い頭が擦れて煙を出しながらも、全力で回転しました。「ほっきり」→「ほっ切」→「堀切(ほりきり)」と結びつきました。私が以前に「一の切」等の地名について、私なりに推論して「不思議な地名についての考察」に投稿しましたが、正にそのことをおっしゃっていたのです。
私が下手な推論をするまでもなく、清水畑(すずばた)の人達には、「堀切」と「一の切」などの地名についての伝説が伝わっていたのです。畑沢の人に広く伝わっていたわけではなくて、極、一部の人だけに正確に伝わっていたようです。私にいつも背中炙り峠について教えて下さっていた方でさえも御存知なかったのですから、一般の畑沢の方々は全く御存知ありません。
「ほっきり」は、「ほりきり」と若干の発音の違いはあるものの、ほぼ正確と言えるでしょう。「堀切(ほりきり)」という言葉は、日常会話に出て来ないかなり専門的な言葉です。現代では歴史研究者だけが使用する特殊な用語です。畑沢の唯一と言える農業とは全く関係ない世界の言葉です。当然のことですが、私などは畑沢の楯を勉強し始めて初めて知りました。畑沢に生まれていながら、60年以上もの間まったく知らないでいました。
ところで、堀切とは、城や楯の防御施設の一つで、水のない堀のことです。空堀のことです。背中炙り峠がある尾根には、比較的大きな楯がありました。西暦1600年に関ヶ原の戦いがありましたが、その前に野辺沢城側が上杉勢からの攻撃に備えて作られたものであろうと専門家は言っています。今から400年以上も前のことです。
その防御施設である堀切のことを、400年後の現在も御存知だと言うのは尋常ではない気がします。古瀬K氏の先祖は、楯の建設に深く関わったのか又は楯で防御の任務に就いていたのではないかと思います。