-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

「背中炙り峠の楯跡」で最終調査の報告(のつもり)

2019-05-13 16:18:48 | 歴史

 有名な歌手は、引退を表明してから延々と興行して全国を回ります。お店の場合も、「閉店セール」を何回も行い、何にもなかったかのように営業が続きます。私も最後の調査と言ってから、何度も報告しています。私の場合も、先の二者と同じように見えますが、実は大きく異なります。私の場合は本当に「最後」だと思っているのですが、その後にぽつりぽつりと不足していることが見つかるために、嫌々、追加調査しているだけです。言うなれば「他意はない」のです。

 さて、その最後のつもりの「背中炙り峠の楯跡」調査に行ったことは、既に近況報告の中で、チラリとほのめかしております。令和元年5月2日に背中炙り峠に登りました。一つ目の調査の狙いは、平成29年12月31日に投稿した堀切をもう一度写真に記録することです。この楯跡で「一番最後」に発見した堀切です。当時、北村山地域史研究会のメンバーの御指導で発見できたのにもかかわらず、カメラを持参しなかったために撮影できず、その一か月後に再び撮影に出かけたのですが、今度は葉が茂って見通しが利きませんでした。翌、平成30年は忙しくて楯跡調査もできませんでした。

 それで今回の調査になりました。写真の左から右へ尾根が下がっており、途中を深く断ち切って堀切が作られています。堀切の左側は約4mの斜面です。戦が終わると堀切の役目も終わり、しばしば堀切の一部が埋め戻される場合があるようですが、ここは全く埋め戻されておらず、当時のままです。撮影のために堀切の中に降りたのですが、再び斜面を登るのはかなり大変です。しかし、体力だけが自慢の私としては、平気な顔で登らなければいけませんでした。

 

 調査の二つ目の狙いは、「石垣」の確認です。昭和33年に有路慶次郎氏が著した「畑沢之記録」を私が翻刻しており、その中に楯跡の畑沢側に石垣があったとの記述があるからです。これまで背中炙り峠の楯跡調査に10回以上は行ったのですが、全くそれらしきものを見たことがありませんでした。それで今回は今まで見なかった所を重点的に調べたのですが、ついに石垣を見つけることができませんでした。石垣は本当にあったのでしょうか。もしあったとしたら、それはどうしたのでしょう。草木に覆われて見えなくなったか、それとも炭焼き窯の石材として壊されてしまったのでしょうか。謎のままで終焉しました。

 

 ところで、石垣ではなく「小さな小さな堀切」みたいな溝があります。楯跡がある「背中炙り峠」と県道が通る「背炙り峠」の中間地点にあります。楯跡調査を始めた6年前に既に気付いていたのですが、極めて小さいこと、近くに曲輪などが見当たらないこと、楯の中枢部からかなり離れていることなどのために、楯跡とは関係ないものと思っていました。小さいので、「猫 跨ぎの堀切」と馬鹿にしていたと言うべきかもしれません。幅が2mとちょっとあります。しかし小さいとは言っても、最南端にある三の切の堀切とさほど規模が違いません。そこで、一応、紹介しておきます。

 

 尾根を掘った土は左の尾根に積んで、土塁のようになっています。左から来る敵に対して、鉄砲などで待ち伏せすることはできそうです。

 

 これで背中炙り峠の楯跡調査は終わったかと思います。次の楯跡調査は畑沢で4番目の楯跡です。上畑沢にありましたが、図面に表すことに苦労しています。と言うよりも全く見通しが立ちません。背中炙り峠の楯、山楯、おしぇど山の楯で図面づくりに役立ったような航空写真がありません。あっても木が生い茂っています。とても地形が分かりません。測量する技術もありません。どうしましょう。