-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

石橋供養塔の解読に挑戦

2019-05-21 16:49:39 | 歴史

 最近は全く畑沢通信に石仏を登場させていないのですが、別に石仏を嫌いなわけではありません。むしろ当時の村人の息吹を感じる様で大好きです。ところが、予備知識が乏しいので、これ以上に突っ込んで記述することができないだけです。

 ところで昭和33年に有路慶次郎氏が原稿用紙に著した「畑沢之記録」に、私には絶対に解読できない「石橋供養塔」についても書かれていました。この石仏は、上畑沢墓地の入り口に建てられているものです。天明の大飢饉のときに、窮乏している畑沢の村人の救済事業として古瀬吉右衛門が私財を投じ、畑沢から尾花沢村までの48か所に石橋を作りました。石橋完成後、天明八年(西暦1788年)石橋の安全を願って建てた石仏だそうです。上畑沢の墓地入口に向かって左側に立っています。なお右の石仏は六面幢(六地蔵)です。ここは石仏の宝庫です。


 この石仏の表(おもて)は次のとおりです。刻まれている文字には、私ではとても分からないものがありますが、専門家が既に解明して下さっています。私はそれを確認することさえ致しません。この方は私の歴史に関する師匠でもあります。私に実力があれば解読に挑戦するのですが、それ以上の事ができないものと諦めています。青い文字は私が解読できなかったので、専門家が読み解いたものをそのまま用いています。私は権威というものを毛嫌いし、既成概念をそのまま信じるような性格ではありません。しかし、この専門家の実力は信頼できます。私が見込んだ師匠です。

 

 ところが、石仏の裏は、ほとんど解読できません。私には、下図の程度に見えただけで、読めるのは、「四十八」や「石」だけです。「四十八」とは石橋を作った個所数で、「石」は石橋の石と思われました。ほかの線は明瞭なのですが、文字として解読できませんでした。そのころ、私は変体仮名の存在を知らず、草書体などは形を見ても読み取る気持ちさえ生じませんでした。ましてや拓本(たくほん)を写すことなどは、私にとっては異次元の世界です。この石仏の表側を専門家が解読して下さったように、裏側も専門家が解読して下さることをひたすら期待していました。

 有路慶次郎氏の「畑沢之記録」でこの石仏の裏側についての次の説明がありました。

 

  有路慶次郎氏はこれを今から約60年も前に解読しようとしたのです。肉眼で頑張ったはずです。今はカメラがあり、デジタルなので色調や明度を調節することができます。図書館やインターネットで変体仮名や草書体を調べることができます。いつも人に頼るだけの自分が恥ずかしくなりました。有路慶次郎氏の時代は今から約60年前なので、少しは石仏表面の風化が今よりは少なかったかもしれませんが、それでも造られてから既に170年も経っています。読み取れにくいのは同じです。

 そこで、覚悟を決めて今まで撮った写真を点検しなおしました。撮った季節によって苔などの付着程度が異なります。撮った時間帯や天気具合で、光の方向が違います。さらに、パソコンで色調、明度、コントラストなどを調整すると、見えてきました。まあ、その努力も効果があったのは事実ですが、最も役立ったのは有路慶次郎氏が読んだ上記の文字です。これを頭に入れて石仏をじっと見ていると見えてきます。これまで何にも見えなかった所に、次々と文字と文字らしき線が見えてきました。先入観を持つことには弊害もありますが、「ヒント」は多ければ多いほどに有難いものです。ただし、私には子供のころから、天井の汚れを見ても、雲の形を見ても、様々な画像を作る特技があり、飛行機の形などを空想していました。つまり、本当は何もないのにもかかわらず、石仏のただの傷や汚れを文字と誤る危険性があります。

 畑沢の大先輩である青井法善氏の「郷土史之研究」を翻刻する作業を通して、私でも変体仮名と草書体を少し分かるようになっています。6年前の私ではなくなっていました。下図の左が文字などをなぞったもので、右が現代の文字に翻刻したものです。


は異体字「㪽」。

は、その上に「延」があるので、「沢」かなとも思ったのですが、当時なら「澤」を使うはずです。

③④は石工の名前があったのでしょう。

は「者」を崩した変体仮名。

は文章的な流れとして、「も」が考えられますが、線が薄すぎて見えません。

は「連」の草書体に似ているのですが、文章としての前後の文字との繋がりが感じられません。

は保を崩した変体仮名に似ています。

は全く見当がつきません。

は「み」の変体仮名とも同じですが、ここでは「形見」の「見」とすべきかと思います。

は「連」を崩した「れ」の変体仮名に似ていますし、文章としても適しています。

は有路慶次郎氏は「や」と見ておられたようですが、その「や」の上に繋がっている明確な角ばった線が見られます。この線は風化の産物ではありません。

は竹冠(たけかんむり)の漢字です。しかし「筆」にはならないと思います。

は全く見当がつきません。

⑰⑱は線が極めて薄いので、単なる傷の可能性があります。しかし全体の文字の配置から考えると、この行にも文字があったはずだと思います。


 さて、いろいろと頑張って挑戦したのですが、完全に読み解くことができませんでした。かし、何事も努力すると「前進」はするようです。少なくとも、青井慶次郎氏の業績の上に少しでも積み重ねることができ、66年前の有路慶次郎氏に近かづくことができたのではないかと自己満しています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする