背中炙り峠付近の古道については、ほぼ解明し、さらに畑沢の集落内の古道(江戸時代の道)について解明を進めていることを3月に投稿しました。
江戸時代の古道は、延沢から荒町を抜けて、松母の南の堂ヶ沢に入ると背中炙り峠に向う街道です。堂ヶ沢は沢の東の山裾にあり、荒屋敷まで同じ東側の山裾を通って峠に向います。ところが、畑沢地区生涯学習推進センター(旧畑沢分校)がある南の沢の入口から上畑沢へ向かう古道は、沢の西側の山裾を通ります。つまり、東にある荒屋敷から西にある南の沢入口に沢を横断することになります。その横断するルートは、これまでは解明できませんでした。水田の改良工事とスーパー農道建設工事がありましたので、もう解明することは不可能と最初から諦めていました。
ところが、過日、大戸H先輩と話していたところ、思わぬことを教えてもらいました。子どもの頃には、県道を通らないで荒屋敷へ行ける近道があったと言うのです。それが今でもあるかもしれないとのことでした。また、その出発点にあたる場所には、馬頭観音らしき石が埋まっているそうです。それではと確認を始めると、直ぐに南の沢入口の県道の上からそれらしきものを見ることができました。私が想像していたルートとは全く異なります。そして、蛇行しているものの、荒屋敷へほぼ真っ直ぐに伸びています。
実際にその場所を歩いてみました。最初は幅が狭かったのですが、往時の古道らしく約七尺(2m)の道幅になっている所も見られます。幅が狭くなっている所は、長年の耕作で削られたものと思われます。削られることはよくあることです。
さらに進んでも約七尺の道幅です。
荒屋敷に近づくと、千鳥川の堤防と一緒になりました。河川工事の時に古道も巻き込まれてしまったようです。このあたりは古道と断定するのは困難です。しかし、荒屋敷から渡ってくる橋がこのどこかにあったことと思います。橋は旅人が通る街道の橋であり、「向かい」地区へ渡る橋でもあります。
これを図にしてみました。新しく分かったルートは、今でも田の形に残っています。gooの地図又はGoogleの航空写真でもはっきりと見ることができます。法務局で登記簿を調べれば、所有状態から古道と判断することができるかもしれません。
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