有路慶次郎氏の「畑沢の記録」(昭和33年)に畑沢の消防に関する次の記述部分がありました。
(動力消防ポンプ)
昭和三十二年‥‥‥。同三十二年、動力ポンプ購入、区長‥‥、消防分団長‥‥。小型動力ポンプであるが性能は充分ある由、から大金二十万円を出して町当局から十七万円程であった。
昭和32年に動力ポンプになったということは、それまでは動力ポンプではなかったことになります。それまでの消防ポンプは「手押しポンプ」だったのでしょう。手押しポンプについては、5年ほど前に亡くなった大戸H氏から話を聞いた事があります。
「畑沢には龍吐水という消防ポンプがあった。そのポンプを冬に運搬するときは、橇(そり)を使った」
「その橇は、今、背中炙り峠にある湯殿山を運んだ時に使ったものだ」
因みに背中炙り峠の湯殿山(石仏)は下の写真のことで、嘉永五年に造立されたものです。畑沢村の村人全員が標高差約二百mもの坂を上に運びました。台座を含めると約2m30cmもあり、私の小さな自家用車よりも重いものです。
そして、龍吐水とは下の写真のような消防ポンプで、手押しして使います。写真のものは、山形県内のある地区の物ですが、リサイクルショップに展示されていました。地区名が書かれてありましたが、写真を処理して消去しました。畑沢の龍吐水がどんなものであったかは分かりませんが、もしかしたら赤いペンキで塗装されていたかもしれません。と申しますのは、私が小さい時に物置の天井に消防ポンプが下げられていて、それが赤かったからです。その消防ポンプが果たして畑沢で使った物かは確かめていませんでしたが、父の収集癖で廃棄する時に譲り受けた可能性があります。一度も動かしたことがないままに、やがてボロクズ屋に売り払っていました。
父は本体を売り払ったわけですが、「竜の口」部分が残されています。水の噴出孔は僅か径1cm程度で、お淑やかなおちょぼ口の龍です。写真の管は曲がっていますが、小さい時に私が遊んで、曲げてからです。「良い子」ではなかったようです。
おちょぼ口の嘴は管部分から外すことが出来ます。全く錆びていないことと金属の色から察するに、真鍮製だろうと思います。
ズック製のホースと接続する部分は、太くなっています。直接ホースに接続するのではなくて、恐らくコネクターがあったのでしょう。
はて、本題から大分、外れてしまったようです。何の話だったのでしょう。そうですね、動力消防ポンプの話でした。今はどんな消防ポンプでしょうか。
昭和32年ころは、消防ポンプの経費は、原則、地元負担だったのですが、今はあくまでも自治体の負担とすべきものになっています。でも、今でも消防団へ地元から多額の補助金を出さなければならないようで、困ったものです。特に畑沢は戸数が極端に少ないので、一戸当たりの負担金が尋常ではないようです。消防という地方公共団体の会計に係ることが、そのようなことでまかり通っている不思議な話です。
また、話が反れてきましたので、今日はこの辺で終わりにいたします。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます