二人の先輩が畑沢に関わる郷土史を著しました。一人目が昭和2年に「郷土史之研究」を書かれた青井法善氏で、二人目は昭和33年に「畑沢の記録」を書かれた有路慶次郎氏です。両書は、その後の郷土史研究のベースとなり、昭和41年に尾花沢高等学校郷土研究部が発行した「尾花沢伝説集」や、昭和46年に楯岡高等学校が発行した「郷土 第二」の主要な資料になりました。
「郷土史之研究」については、これまで何回かブログで取り上げて紹介してきましたので、今回は「畑沢の記録」から一つ地名のことを取り上げます。
畑沢の南端にある「背中炙り峠の楯」に因んだ地名の伝説が残されています。「一の切」「二の切」「三の切」「小三郎」「平三朗」「又五郎」です。このうち、「一の切」「二の切」「三の切」は、楯跡の中にある堀切(ほりきり)がある沢(谷)のですが、「畑沢の記録」に引用されている古文書を見ると、昔は別の名前になっていたようです。
先ず、その一つは延享四年(西暦1747年)の「質物に相渡申由地之事」に次の内容がありました。
一、新田 有所 二の堀切 稲百拾束苅
二つ目の古文書は慶応元年(西暦1865年)の「乍恐以書付願書ニ而奏願上候」の次の部分です。
‥年之示談ニ基キ字上論田、中論田、下論田、深沢向、三ノ堀切、二ノ堀切、平三郎、背中炙上、立石山‥
つまり、幕末ごろまでは明らかに、「一ノ堀切」「二ノ堀切」「三ノ堀切」のように「切」だけでなく「堀切」という文字が入っていました。これだと堀切に因んだ地名であることが直ぐに分かります。江戸時代はずっと「堀切」の文字が入った地名でしたので、村人は楯跡の「堀切」の存在も知っていたことになります。
しかし、昭和33年の「畑沢の記録」では有路慶次郎氏は「二ノ切」の表現を使っていますし、私も父親から「一の切」「二の切」「三の切」と教わりました。地名から「堀切」の文字が消えるとともに、楯跡の存在を知っている人は極、限られるようになりました。
【現在の二の切】
地形を見ると昔は水田だったことが分かりますが、今は耕作放棄され萱に覆われています。
【二の切】から楯の主郭跡方向を仰いだ写真です。
【三の切】 昭和25年に沢の奥深くまで林道が切られました。
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