-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

尾花沢市立常盤中学校の閉校記念誌

2015-05-14 18:13:08 | 近況報告

 母校、常盤中学校が今年の3月で閉校となり、それの記念誌が発行されたことは、以前に投稿しました。しかし、その内容については、一切、まだ報告していませんでした。今回、記念誌を見せていただきましたので、概要をお知らせします。

 記念誌は同窓会によって発行されました。全部で137頁となっており、尾花沢市長、統合準備委員会委員長、同窓会長、常盤中学校長の御挨拶が最初にあります。次に新旧の校舎と思い出の写真、歴代校長と歴代PTA会長の写真、昭和22年度から平成26年度までの28年間の沿革がまとめられています。

 そして、肝心の卒業生の卒業記念写真と全生徒の名簿が68年間分がありました。

 既に、故郷を離れた人への配布はありませんでしたが、尾花沢市民図書館に保管されていますので、閲覧できます。貸し出しはできないようです。

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峠の上は第二次開花ブーム

2015-05-10 13:30:49 | 自然

 一昨年から進めていた背中炙り峠の楯と古道を調査するために、五月八日に峠に登りました。まだ背炙り峠(県道29号線)を通ることができませんでしたので、尾花沢を回って畑沢に入りました。途中、4月15日の畑沢祭の日に、美味しい畑沢の米で炊いた赤飯をお土産に下さった古瀬K氏宅に、お礼と御挨拶を申し上げました。その時に、私が峠に行くことを告げたら、古瀬氏は「一人でおっかなぐなえが」とお聞きになりました。最近は熊、猪などが出て来る危険性があるので、山へ入ることに対して恐怖を感じている人が多くなりました。私はスビタレとして、自他ともに認めるのですが、山へ一人で入ることについては、不思議と怖がりません。人気のない季節外れに一人で深山に入り、山小屋やテントでも過ごすこともありました。スビタレがスビタレらしいのは、多くの人の前です。意気地なしなのです。

 さて、山へ入ると、春は一層、進んでいました。春一番の花の集団が終わり、次の集団の花の時期になっていました。次の写真は、ヤマブドウの花の蕾かと思いす。まだ、花弁を広げていませんが、ブドウの房のように蕾が集まっています。

 次がクロモジの花です。同じクスノキ科のアブラチャンは既に咲き終わっていますが、クロモジはそれよりも少し遅く咲くことが分かりました。

 

 山ではしばしばぶら下がって咲く樹木の花に出会います。以前に紹介したハンノキの花と形が似ていますが、写真の花はそれよりも大きいものです。樹木も大木になります。ヒメグルミだそうです。これは料理や菓子の材料としてはあまり使われないようです。

 

 作業道の脇に変わった形の葉を広げ、白い花が咲いていました。サンカヨウです。秋にはここに青い実を付けます。

 イカリソウも作業道の脇に沢山、顔を出していました。中学校時代なら、薬草の材料として採集していたかもしれません。常盤中学校における夏休みの一大作業でした。学校で集めて、生徒会の財源にしました。ところで、私はあまりイカリソウを相手にしていませんでした。理由は採集するのが面倒だからです。私には採集が簡単なドクダミでした。

 調査地を奥へ進むと、典型的な楯の防御施設である「堀切(ほりきり)」が現われました。何度見ても凄いものです。樹木が斜めに見えますが、写真撮影は普通のやり方です。樹木が斜めになっているのです。私には作為する芸術的能力はありません。ただただ、正直に撮影しています。

 この堀切の上には、ツツジが群落となって咲き乱れていました。まるで、約400年以上も前に、楯を守っていた野辺沢軍の武士たちの魂が、今でもここに残っているかのようです。?、この言い方は昨年の秋にも似ています。

 曲輪がある場所から、さらに南へ向かって尾根を進むと、黄色い蕾を持った灌木が多くなりました。乏しい植物の知識なのに、蕾ならさらに分かりません。それでも何とも感じないでいたら、花を開いているものがありました。あっ、これは見たことがある。上畑沢の川べりに咲いていた「あれ」でした。「ウゴ何とか」を思い出すのが限度です。そこはパソコン。以前の写真に名前が付いて保存されていました。ウゴツクバネウツギだそうです。9文字もあります。私としては、せめて五文字ぐらいに収めてほしいと思います。

 そして、最後の花です。とうとう名前が分かりませんでした。見当もつきません。でも、きれいな花でしたので、掲載しました。どなたか教えてください。

 ところで、「何方か教えてください」とお願いするのは、かなり有効なようです。過日、畑沢の花の様子を投稿しました際に、名前が分からないことも書き添えたところ、救って下さった方がありました。キイロノアマナということでした。ありがたや、ありがたや。

 

 ここで、畑沢の先輩の訃報をお知らせします。これまで私に何度も「畑沢」を教えて下さった有路S氏が亡くなりました。まだまだ教えていただくつもりでしたが、残念です。家が近くで、息子さんも私と年が近かったので、大変にお世話になった方です。御冥福をお祈りいたします。

 

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不思議な地名についての考察

2015-05-05 12:11:10 | 歴史

 畑沢の最南端(千鳥川の最上流部)に、沼沢(又は沼ヶ沢)があります。その沢から西側に小さな沢(谷)が何本も並行して枝分かれしています。その小さな沢(谷)には、不思議な名前が付いています。以前に畑沢の地名を取り上げて投稿してきましたが、その地名についての考察は一切、しておりません。その地名は、「小三郎」「平三郎」「一の切(きり)」「二の切」「三の切」です。この地名を知っている畑沢の人も少なくなりした。普通、沢(谷)の名称ならば、「〇〇沢」などと言われます。ところが、前の二つは人の名前であり、後の三つは関所の様な名前です。

 私は小学生のころに父親から、

「沼澤の奥には一の切、二の切、三の切というところがある」

「昔、侍がいたころに、ずっと奥に牢屋があった。牢屋へ行く前の関所だったところだ」

と教えられました。素直な私はそままに受け止めていましたが、素直な子供でも大きくなると、父親の話を疑うようになりました。全く根拠がないのです。その後、畑沢の長老たちに聞いても何方も御存知ありませんでした。決して知ったかぶりに適当なことを言う方々ではありません。そうすると、私の父親の話は何だったのでしょう。どうも、私の父親は息子と同じで、想像するのが好きだったようです。

 さて、昨年11月に背中炙り峠(古道の峠)から続く尾根を南へ探検しました。一昨年に大平山に登って峠を見下ろした時に、そこ(尾根)に何かが隠れている気がしたからです。やはり、ありました。ひたすら進んだ時に、突然、尾根が断ち切られていました。「堀切」と呼ばれる城の防御施設です。ここの尾根は左右の傾斜が60度もあろうかと思われる急斜面です。それだけでも十分なほどの険しさですが、さらに尾根を断ち切って虎口と呼ばれる通路以外は通れないように両脇の斜面を削ってあります。それが三ケ所もありました。

 野辺沢城の出城としてのがあったことは、これまでも何度か投稿してきましたところです。楯には曲輪があり、その曲輪の中と縁に大きくて深い堀切があります。このことは、「南出羽の城(保角里志 著)」に詳しく書かれています。しかし、そこから南へつながる尾根にも堀切があったのです。その曲輪から離れた場所の堀切と「一の切」「二の切」「三の切」の地名が対応している気がします。一の切と二の切の奥には確かに堀切があります。三の切の奥がかなり怪しくなります。三の切の奥が尾根になるべき所が平場になっていて、直接、堀切へ繫がっていないからです。三の切の奥も不思議な所です。それでも、三の切を奥に進めば堀切へ到達するとも言えるようではあります。

 そこで、結論です。「一の切」「二の切」「三の切」の地名は、尾根にある堀切を意味していただろうということです。「この沢(谷)を登っていくと、どこそこの堀切がある」と言っていると思うのです。他には考えられない地名です。ただし、楯が作られたのは、今から400年以上も前のことですので、地名が現在の場所と必ずしも合致するとは限らないのではないかとも思えます。字(あざ)名もありませんで、単なる口伝で残されてきた地名です。それにしても、楯跡そのものの存在がよく知られていなかったのに、楯と関係する地名だけが残っているのは大変、面白いことです。

 

 では、「小三郎」「平三郎」は、何を意味しているのでしょうか。ただ言えることは間違いなく、人名であることです。「人」とは、当然、楯を守っていた人ではなかったでしょうか。二人はそれぞれ持ち分があり、それぞれが別の沢(谷)を担当していたと見るべきかと思います。二つの名前も似ています。小三郎は平三郎の息子のような気がします。もしも、そうだとすれば、背中炙り峠の楯は、ある家臣の一家で守っていたことになります。その子孫が畑沢にまだいるのかもしれません。

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もしかしたらユキツバキかなあ(その3)

2015-05-03 08:08:33 | 自然

 畑沢には野生の椿が満開でした。5月1日に熊野神社と畑沢地蔵庵を訪ねたら、山裾をぐるりと囲んで、椿が一斉に真っ赤な花を開いていました。真っ赤な花は、葉の濃い緑のために目立たないのですが、近づくとその見事さが分かります。

 これまでもその1その2で紹介してきました。2回ともまだ花はありませんでした。この度ようやく、花を見ることができました。その美しさは想像以上でした。どうして、半世紀以上もの間、私は気が付かなかったのでしょう。はるか昔からそこにあったので、普段の風景でしかなかったのです。ましてや、山に近づいて、しげしげと眺めるなどは考えもしないことでした。椿に対して大変、申し訳ないことをしてきた気持ちです。

   庭などに植えられている椿と比べると、花弁(はなびら)は薄くて上品です。まだ椿についての勉強も不足している私には自信はありませんが、花の真ん中にある雌しべの集団らしきものは黄色です。葯と思われる部分が黄色なのは、園芸品種と同じですが、雌しべの柄の部分も黄色っぽい感じがします。

 

 ここの椿の素晴らしさは、個々の花が美しいだけではなくて、それが200mぐらいにわたっていることです。やはりユキツバキかなあ。山形市内のY氏から御指導いただけるのが楽しみです。

 Y氏によると、葉脈を見て判断できるとおっしゃっていました。透かして見たのですが、元々、植物についても素養がないので、それでも分かりません。他の椿との比較ができません。


 さて、もう一人、満開の椿を楽しんでいるのが、この山に二百年以上も鎮座している如意輪観音様です。右の頬に手をやりながら頭を傾けて花に見入っています。

 ところで、畑沢の祭の席で、この石仏は「歯痛(はいた)の神様」と呼ばれていました。歯が痛む頬を抑えていると言うことでした。さすがに私の先輩たちは、うまいことを発想するものです。

 

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隣村を訪ねました(荒町編)

2015-05-02 17:47:33 | 自然

 平成27年5月1日、畑沢へタラの芽を採りに行った時に、畑沢の手前にある荒町に立ち寄りました。一週間前にもここに来て、荒町に住んでいる大戸姓について調べている時に、地元の方から「あそこには、素晴らしいブナ林がある。山奥ではない人家の近くでは珍しい」と教えていただきました。

 ブナ林は、八幡神社の境内の一部になっています。神社の境内と言えば、普通は松が多く、ブナ(橅)という例は聞いたことがありません。

 下の写真の真ん中に葉を広げているのがブナ林です。手前の建物は、社務所兼住宅です。ブナ林は県道からも良く見えます。

 

 ブナ林は、かなり広い面積です。5,000㎡ぐらいはありそうです。山の奥で5,000㎡は大したことはありませんが、住宅地の隣接地で5,000㎡は広大です。ここのブナは幹の径が約70cmぐらいはありました。ブナでこの太さになるには、百年以上はかかります。もしかすると、明治以前(約150年前)から大事にされてきた可能性があります。大事にしてきたのは、代々の宮司さんとのことでした。実に見事なブナ林になっています。因みに畑沢で最も広いブナ林は、大平山の寶澤の斜面一杯に拡がっていますが、ブナの幹の太さはこの荒町にあるブナには遠く及びません。

 

 ブナ林のすぐ隣には、杉林が参道を暗くして神秘さを醸し出しています。神社へ登る途中に各種の石仏が立っています。

 

 神社のそばを流れる小川にも感激しました。昔懐かしい姿のままです。最近の小川の殆どは、「U字溝」と言うコンクリート製品が使われて、無粋で生き物を寄せ付けない環境になっています。しかし、この小川は生きている感じが伝わります。見ているだけでも癒されます。この小川の近くでもU字溝が使われていましたが、ここだけはこのような姿です。何方かの素晴らしい判断があったものと思われます。故郷にこのように判断できる方がおられることは、嬉しく誇りに思えることです。

 

 小川の中を覗いてみると、さらにうれしい光景がありました。バイカモ(梅花藻)が水の流れに揺れています。きれいな水にしか生えない植物です。水の中には、ホタルの幼虫が食べる「カワニナ」もいました。夏には、ゲンジボタルやヘイケボタルが付近を飛び交えばと期待しています。

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