-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

昭和5年の常盤村(農具の保有状況 その2)

2017-12-06 16:43:10 | 歴史

 尾花沢市史編纂委員会が昭和51年12月に発行した「市史資料第三輯 郷土調査」には、昭和5年に尾花沢小学校、宮沢小学校及び常盤小学校が「郷土調査と学校経営」として調査した内容が記載されています。

 平成29年10月16日に「昭和5年の常盤村(農具の保有状況 その1) 細野は水車の里でした。」を投稿いたしました。今回は農具の保有状況の第二弾として、養蚕に関わる農具だけを取り上げます。

 これまでと同様に「郷土調査」の表では、漢数字を用いていましたが、算用数字に置き換え、列の順序も左右を逆にしました。

 さて、下の表は養蚕に関わる農具の保有台数です。この表を見ただけで、既に細野地区の保有が飛びぬけて多いことが分かります。

 ただし、細野地区は戸数が多いので、この表だけでは何とも言えません。そこで、戸数当たりの百分率に直したのが下の表です。すると、細野地区の保有している割合が高いのは勿論ですが、荒町地区も多いことが見えてきました。この両地区は、他の地区とは比べものにならないほどに養蚕に力を入れていたことが分かります。恐らく、集落全体として取り組んだものと思われます。リーダーシップに優れた人がいたのではないでしょうか。


 くどい様ですが、百分率の表をさらに下のグラフにしました。十字手裏剣印が荒町地区で、星印が星その地区です。畑沢は矢印ですが、養蚕の農具は少ないようです。

 さて、その養蚕に関わる農具とは、どんな物だったのでしょう。私の家には、まったく農具が残されていませんので、尾花沢市牛房野地区の「ほたるの里郷土資料館」で確認してきました。牛房野小学校が尾花沢小学校に統合された校舎を利用しています。牛房野地区の縄文時代の土器、石器などのほかに昔の農具が展示・保存されています。細野地区の巾遺跡からの土器と石器、延沢地区の農具もありました。

1 まぶし打

  これには「打」と「組」があるようですが、私にはその違いが分かりませんでした。下の写真はそのどちらかになります。

 蚕は成長すると、蛹(さなぎ)になります。その前に蚕は口から絹糸を出して周囲に張り巡らし、その中に自分が入る繭(まゆ)を作って蛹になります。糸を張り巡らす立体的な場所が必要になり、それを藁(わら)で作った物が「まぶし」です。藁はただ真っすぐなだけですので、それを立体的に折り曲げる道具が「まぶし打」です。藁で作るまぶしにはいろんな種類がありましたが、下の道具は最も単純なものです。二つの取っ手を両手で交互に操作して使います。などと説明していますが、私は一回も使ったことがありません。我が家の屋根裏にありましたが、幼い私には何の道具か分かりませんでした。分かったのは、極、最近のことです。このまぶしは、どんどんと進化して、やがて紙製になりました。


2 桑切機

 このまま文字のとおり解釈すればいいようです。要するに桑を切る道具だろうと察しがつきます。しかし、今まで見たことも聞いたこともありません。ましてや使ったこともありません。そもそも、桑を切る必要性が分かりません。

 それは、蚕の育て方が我が家とは異なることによるようです。畑沢では、蚕を上の写真の丸い竹籠のような物に載せて、桑の葉だけを与えていました。その後、昭和40年代になると蚕の育て方が進化して、ある程度に成長すると竹籠ではなく長い棚で育て、桑の葉は枝に付いたままで与えることになりました。従って、桑を切ることは全くありませんでした。

 それはあくまでも畑沢での養蚕の仕方であって、他の地区では別のやり方だったようです。大規模に養蚕をやっている地区では、一枚ずつ桑の葉を枝からむしり採る作業をしないで、枝ごと切って与えたのでしょう。

 上の写真の機械は、右手でハンドルを上下して、左手で桑の枝を刃の方に押し出す仕組みになっています。下の写真の機械は、押し出す動作が自動になっています。


3 繭むき機

 繭を出荷する時には、繭の周りにある毛羽状の絹糸を奇麗に取り除かなければなりません。その作業を「繭むき」と言います。毛羽状の絹糸は手でも簡単に剥けるのですが、大量の繭では機械が必要です。左の台に繭を載せ、右手でハンドルを回しながら左手で繭を少しずつ右のほうにずらします。奇麗に剥けた繭は、台の右から下に落下します。この機械には多数の種類があるようです。


 絹糸の生産は国の大きな輸出産業でした。下の写真は、畑沢の実家に残っていた「大日本蚕糸会」の会員章です。小さな箱の裏側に、「大正拾四年に皇后陛下ヨリ賜り」と父親が記していました。大事な物として保存していたようです。しかし、1929年に世界大恐慌が始まり、絹糸は大打撃を受けることになりました。

 戦後に再び養蚕が盛んになりました。畑沢などの稲作農家では、農産物の収入は米を出荷した秋遅くだけでした。しかし、消費経済が進行した社会では、何かと現金が必要になってきました。そこで養蚕が盛んになってきたわけです。北国は暖かくなるのが遅く寒くなるのは早いので、養蚕の適期は短いのですが、暖房してまでも養蚕をやるようになりました。そうなると、桑の葉の成長もままならずに、桑の葉をよその家から買ってきていたようです。稲作と養蚕の両方により、農家に体を休める時期がなくなり、一年中が忙しい毎日でした。私たち子どもも手伝いです。

 お陰で勉強することもできずに、今でもその習慣はありません。と言うのは嘘です。単なる私の性格です。

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畑沢は雪の中に入ろうとしています。

2017-12-04 17:45:51 | 近況報告

 冬の準備のために畑沢へ。今年は11月の下旬に雪が積もり始めて、そのまま根雪になりました。昔なら当たり前のことで、12月ならばスキーができるほどでした。温暖化が進んだ今日では、この時期でこの雪の量は珍しくなってきています。雪が積もりましたので、背炙峠の通行は最初から諦めました。尾花沢を廻って延沢から畑沢へ向かいました。九日町から荒町方向へ右折する曲がり角には、石仏が三体あります。私たちが畑沢から小学校と中学校へ通う時には、いつも目にしていた石仏です。当時でもかなり風化していて、地蔵と思われる石仏の顔は分からなくなっていたような気がします。今はもっと風化していて、丸い石だけの頭になりました。それでも、地元の人達は手網みの帽子と肩掛けを作って地蔵に着けていました。お陰様できれいな色が雪の中で一際、映えていました。

 畑沢の入り口には庚申塔と馬頭観世音が、雪の中に凛として立っていました。右端は、近くのお宅で建てた愛犬の墓です。畑沢の人達の優しさが伝わってきます。

 

 その近くには、畑沢の地層がよく分かる崖があります。夏季には草で覆われてしまいますが、この時期にはその姿がはっきりと見えます。剥き出しのどの層にも、岩盤はありません。同じ畑沢でも場所によってかなり地質が異なるようです。ここの地層は、火山灰が積もったものの強い圧縮作用がなかったと見え、硬い岩盤になることがなかったようです。

 

 畑沢はほぼ雪で覆われています。これでも尾花沢の町中よりも多いようです。ところで、昔と比べて山に杉が多くなったような気がします。

 

 上の写真と同じ場所から逆方向を撮りました。荒町、車段(延沢)、尾花沢方向です。尾花沢方面の地面側が霧で包まれているように見えます。この後で尾花沢を通ったら、やはり濃い霧が出ていました。

 

 自宅へ帰ってから、背炙峠の通行規制を調べてみました。すると、「平成29年11月29日17時00分~平成30年5月下旬(予定)」が通行止めになっていました。昔ならば、5月上旬には通行できたのですが、温暖化によって雪が少なくなってるのに通行止めの解除が遅くなっています。どうしてでしょうか。それは、ある理由からと思われます。「ある理由」については、後日に明かされます。

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