おさかな’sぶろぐ

日々感じたことを徒然なるままに。。。

歴史からみる日本人

2005年05月22日 16時37分16秒 | 日記・雑談
歴史が好きで、歴史物の本とか小説を読んでいる。
司馬遼太郎の歴史観が好きでよく読みました。最近は井沢元彦が執筆している『逆説の日本史』をよく読んでいます。彼らは独自(あたりまえな)な思考法で歴史をとらえている。司馬遼太郎も井沢元彦もジャーナリストからの執筆の世界に入ってこられたようですね。そのあたりが学者とは違う独自の歴史観をもたれている部分かもしれません。日本人の思考法・行動を考えていく上で歴史から学ぶものは多くあります。それらを踏まえて日本人について考えてみたいと思います。

「わからない」という方法3

2005年05月22日 10時24分50秒 | 日記・雑談
第1章 「わからない」は根性である より抜粋
1 「わからない」という恥
◆「わからない」は恥ずかしい
 著者は、「わからないからやる」を信条としている。「わからない」と「やる」は順接ではない。普通は「わからないけどやる」→「やりたくないけどやる」→「やりたくないけどやらされた」へと思考していく。「わからない」は、普通「やらない」に続く。「わからないからやらない」である。「考えるだけでぐずぐずしている」状態、つまりは「恥ずかしがっている」状態である。
◆「自信」と「恥知らず」は表裏一体
 「わからない」という恥ずかしい状態であるにもかかわらず「やる」→「他人に命令されてしかたなく」へと日本人は思考をシフトしていく。「わからないからやる」が自信のある人間の発言だとしても「恥知らず」のハードルを跳びそこねると「自信ある人」のゴールへたどり着けない。そこで挫折が発生する。
◆二十世紀は「わかる」を当然とした
 二十世紀は、「わかる」が当然の時代であった。自分はわからなくても、どこかに「正解」はあると誰もが思っていた。その「正解」を知らないことは恥であった。だから、競って大学に行き、ビジネスの理論書を読み漁り、誰よりも早く「先端の理論」を知りたがった。
◆「正解がある」は二十世紀病
 二十世紀は理論の時代で、「自分の知らない正解がどこかにあるはず」と多くの人は思い込んだ。既に明らかになっているはずの「正解」の存在を信じ、それをマスターしていく。まずはその「正解」に対する疑問はタブーとし熱心に学習する。やがて疑問が生じれば、「新しい正解を内含している(はずの)新理論」へと走る。つまりは、新しい理論を含んだ情報を追い求める情報社会が訪れるのである。
◆二十一世紀は「わからない」の時代
 「なんでもかんでも一挙に解決してくれる便利な〝正解〟」など、幻想の中の存在である。人は挫折を繰り返す。その度に「わからない」に直面し、その疑問を自分の頭で解いていくしかない。「どこにも正解はない」という混迷の中で二十一世紀は「わからない」からスタートするあたりまえの時代がやってきたのである。