第一章 「わからない」は根性である より抜粋
4 「へん」の使い方
◆挫折の克服は状況把握から
挫折というものは、自分がふるおうとする力と、その自分を取り巻く現実との空回りによって生まれるものである。自分の力は力として、その自分を取り巻く状況が検討されなければ、いかなる力もふるいようがない。
◆私は「へんな人間」である
多くの人は、「へん」という言葉に尻込みをする。それに怯えて、自分の持っている特性を手放してしまう。しかし、「へん」というものは、持ちこたえれば、十分な美点に変わるものであり、「わからない」を方法にするために最も必要なのも、「へん」なのである。
◆「へん」は中立の指標である
「へん」というのは、ニュートラルな指標であり、「へん」が話題性につながると、たやすく「へんじゃないもの」へと成り変わる。
◆「へん」と「へんじゃない」はイーヴンである
「へん」があれば、もう一方には「へんじゃない」が存在する。
◆「へんじゃない」は硬直する
「へんじゃない」は、「自分はへんじゃない」という理由だけで、「へん」という「もう一つの別の立場」を公然と排除してしまう。その結果、「へんじゃない」の視点は、「へんじゃない=自分=正しい」の一つだけになって、自分を検討するために存在するはずの批判的な視点をなくしてしまう。
◆批判を拒否した「へんじゃない」は無責任になる
「へんじゃない」は批判の拒否で、「へん」とは、これに対する批判票である。「へんじゃない」が増えることは、批評されることを拒否する人間達が増えたと言うことである。自己中心的な無責任人間がやたらと増えることになる。「へん」という正当なる批判票は、常になければならない。
◆「へん」と「へんじゃない」は人の必然
「へん」と「へんじゃない」とは、たやすく入れ替わる。人間は、常に自分のことを「へんじゃない」と思うし、思いたがる。ただ世の中「自分」ばかりじゃなく「他人」という人間も存在し、「へん」と「へんじゃない」の発生は、この「自分の目」と「他人の目」によって存在する結果である。ただ、誰も「へん」はいやだから「へんじゃない」という多数派グループに属したがる。
◆なぜ特性を捨てるのか
「へん」という特性を持ってしまった人間ほどいじめにあう。特性とは、「へん」を発生させる元となる「違い」である。いじめはいやだからこれを隠そうとする。結果、似たような「個性」ばかり氾濫し、特性を持った人間を消滅させてしまう。
◆「へん」の力
「へん」と「へんじゃない」とは、一人の人間の中に同時に存在するものである。どちらが「正しい」ということはない。ただ、「へんじゃない」には「へん」を排除する力があり、「へん」にはその力がない。
◆「わからない」もまた「へん」である
二十世紀は「わかる」を当然とした時代であり、すべてに関して「正解」と思えるようなものが存在していると信じられていた。「わかる」を当然としたなかでは、「わからない」は「へん」であった。時代は「わかる」と当然とするものから、「わからない」を当然とするものへと転換した。「へんじゃない」に慣れてしまった人は、「へん」を排除することに慣れて、「へん」の存在を発見することができない。
◆「へん」のメリット
「へんじゃない」という立場に立って、「へん」を見ることはできない。「へん」という立場に拠れば、「へんじゃない」を批評的に見ることができる。であればこそ、「へん」の立場には、「へんじゃない」をひっくり返す力が宿る。
◆「へん」と「信念」が作るテコの原理
「へんじゃない」の持つ力は、「排除する」である。「へん」の力は、「ひっくり返す」である。自分の特性を手放さずにいれば「へん」になり、逆境の中「へんと言われても揺るがない信念」をもっていればゆっくりと熟成される。その力は「硬直して古くなった多数派の常識=へんじゃない」をひっくり返す「へん」という支点を持ったテコとなる。
4 「へん」の使い方
◆挫折の克服は状況把握から
挫折というものは、自分がふるおうとする力と、その自分を取り巻く現実との空回りによって生まれるものである。自分の力は力として、その自分を取り巻く状況が検討されなければ、いかなる力もふるいようがない。
◆私は「へんな人間」である
多くの人は、「へん」という言葉に尻込みをする。それに怯えて、自分の持っている特性を手放してしまう。しかし、「へん」というものは、持ちこたえれば、十分な美点に変わるものであり、「わからない」を方法にするために最も必要なのも、「へん」なのである。
◆「へん」は中立の指標である
「へん」というのは、ニュートラルな指標であり、「へん」が話題性につながると、たやすく「へんじゃないもの」へと成り変わる。
◆「へん」と「へんじゃない」はイーヴンである
「へん」があれば、もう一方には「へんじゃない」が存在する。
◆「へんじゃない」は硬直する
「へんじゃない」は、「自分はへんじゃない」という理由だけで、「へん」という「もう一つの別の立場」を公然と排除してしまう。その結果、「へんじゃない」の視点は、「へんじゃない=自分=正しい」の一つだけになって、自分を検討するために存在するはずの批判的な視点をなくしてしまう。
◆批判を拒否した「へんじゃない」は無責任になる
「へんじゃない」は批判の拒否で、「へん」とは、これに対する批判票である。「へんじゃない」が増えることは、批評されることを拒否する人間達が増えたと言うことである。自己中心的な無責任人間がやたらと増えることになる。「へん」という正当なる批判票は、常になければならない。
◆「へん」と「へんじゃない」は人の必然
「へん」と「へんじゃない」とは、たやすく入れ替わる。人間は、常に自分のことを「へんじゃない」と思うし、思いたがる。ただ世の中「自分」ばかりじゃなく「他人」という人間も存在し、「へん」と「へんじゃない」の発生は、この「自分の目」と「他人の目」によって存在する結果である。ただ、誰も「へん」はいやだから「へんじゃない」という多数派グループに属したがる。
◆なぜ特性を捨てるのか
「へん」という特性を持ってしまった人間ほどいじめにあう。特性とは、「へん」を発生させる元となる「違い」である。いじめはいやだからこれを隠そうとする。結果、似たような「個性」ばかり氾濫し、特性を持った人間を消滅させてしまう。
◆「へん」の力
「へん」と「へんじゃない」とは、一人の人間の中に同時に存在するものである。どちらが「正しい」ということはない。ただ、「へんじゃない」には「へん」を排除する力があり、「へん」にはその力がない。
◆「わからない」もまた「へん」である
二十世紀は「わかる」を当然とした時代であり、すべてに関して「正解」と思えるようなものが存在していると信じられていた。「わかる」を当然としたなかでは、「わからない」は「へん」であった。時代は「わかる」と当然とするものから、「わからない」を当然とするものへと転換した。「へんじゃない」に慣れてしまった人は、「へん」を排除することに慣れて、「へん」の存在を発見することができない。
◆「へん」のメリット
「へんじゃない」という立場に立って、「へん」を見ることはできない。「へん」という立場に拠れば、「へんじゃない」を批評的に見ることができる。であればこそ、「へん」の立場には、「へんじゃない」をひっくり返す力が宿る。
◆「へん」と「信念」が作るテコの原理
「へんじゃない」の持つ力は、「排除する」である。「へん」の力は、「ひっくり返す」である。自分の特性を手放さずにいれば「へん」になり、逆境の中「へんと言われても揺るがない信念」をもっていればゆっくりと熟成される。その力は「硬直して古くなった多数派の常識=へんじゃない」をひっくり返す「へん」という支点を持ったテコとなる。