正確には「さんまい下ろし」ですが、秦の始皇帝の話しとなりまして、まぁ散々知っている話を延々とされるのは、苦痛以外の何者でもなく、最期まで何かあるか何かあるか?
何もありませんでしたぁ~。
三こすり半より性質が悪い!
ってなもので、本で読んだものを、そのまま言うだけです。瞬陳新(字が違うけどいいか)の本を。
まぁ瞬陳新の本も「退屈」で「ちっとも目新しくない」って感じで、我々「濃い中国古代ファン」には「食食気味」と言うより「台抜きの狸蕎麦」(つまり揚げ玉だけ)みたいなものです。
私の方が面白い話が書ける。又吉が芥川賞を取って、妙に嫉妬しています。SHIT(英語でクソ!)
さて、前、どこかの若手のアイドルが「三国志のファンなんです!」と聞いて「ぬわにぃ~ぃぃぃぃぃいいいいい!」と激怒する私です。
毎度の如く「浅い浅い浅い企画」の浅草キッドって感じで、軽いのです、面の皮一枚しかないのです。
ソープランドの美沙さんは「あのね?陳群って知っているよね?」「うん」「陳群の子孫に玄奘三蔵っていたんだよ!」「ぬわにぃ~!あの陳群?魏の大尉の陳群?」「そう!それで私今陳宮が主人公の小説読んでいるの」「陳宮?まぁよりにもよって、あの陳宮が主人公?」と思いました。
私が今まで話しをした人の仲で一番知的で、エレガントな人はソープ嬢でした。正直「愛しています」と言える人。何時の間にか居なくなった。あああ、あれから死んでも良いと思うようになったね。
鬱憤は、ここで晴らそうか!
武田鉄也!中国古代史の奥義をちょっとだけ開陳してやろう!
事は、三国志時代で御座います。
三国時代の蜀争奪戦の折、龐統が狙撃され死亡します。
落龐坡の話ですね。この龐統は放浪癖があり、身なりも、適当で汚い為、貴人として見られなかったので、よく放浪的な偵察をしていたのです。
これを狙われます。
敵が良く知っていたのか?それもあるでしょうが、私は法正が疑わしい。
法正は、三国志で龐統がやったと言う戦果は、ほぼ全てが龐統の功績で、その後漢中征圧戦で張飛と夏候渕を討ったのは、事実でしょう。
その後の三国志では殆ど名前の出ない法正ですが、実は、八面六臂の活躍をしていたのです。
その事を何故推測するのか?
実は、その後諸葛亮孔明の悩み事の種となるのです。
法正は孟達、張松などと蜀の劉璋に重用されず、その他の貴族から偏貶されていた恨みを晴らし続ける為、意趣返しをされている貴族から助命嘆願の願い出が沢山出ていたのです。
しかし孔明は「法正は立国の功臣、彼の意向は誅することは出来ない」と言ったそうです。
ここも推測ですが、この時、蜀の劉備王朝は、荊州の西部も持っており、この2つの間が離れており、蜀の政府では、荊州へ色々できず、その結果、恐らく、蜀の貴族は、法正が存命の間、荊州へ逃げていったのだと思われます。
その為、荊州の牧である関羽は、蜀の貴族から「命乞い」を頼まれ、自尊心の高い関羽は大いに喜び、磐石の治世を延々と信じていたようです。実際、蜀の貴族は有能でもあり、蜀の返還が魯粛への約束でしたが、それを放棄し続けられたのは、行政の充実があったのでしょう。
その荊州が落ちる前に、雪崩を打って、蜀の貴族が蜀へ戻ります。
法正が死んだのです。
それは「自然死」とは思えません。
何故なら「法正」の子孫で有名な存在が無いのです。
根絶やしにされたのでしょう。
それは「貴族連合」と「諸葛亮孔明」の「法治第一主義」と敵対したのです。
実際好き放題、自分の意趣返しをする奴が、中立の立場を守ろうとする人間を煙たがらない訳が無い。
孔明も命の危機を感じていたのだろう。
その後、蜀の安定は活発化したのだろうが、もう一方で荊州のボリュームが減ってしまい、呂蒙の攻撃を呼ぶ事となったのです。
荊州が落ち、関羽が殺されると、夷稜の戦いが始まりますが、これが惨敗して、敗走します。その報を聞いて「ああ!法正が居たら、こうまで無様な戦いはすまい」と嘆いていたのです。
つまり軍師と言うと諸葛亮孔明、龐統などの有名な軍師が表に出ますが、実は、それ以外にも軍師がいたのでしょう。この法正の事があったから、孔明の独裁性が酷くなったという考えもあります。
元々諸葛亮孔明は文人で、軍人ではない。それを埋めるための龐統が殺されて、法正という予想外の権力者が出てきて、当初の計画が崩れたのですね。
この話は、何処にも書かれていません。ですが自身があります。
三国志の外典としては悪くないと思います。。。。。。。。。。。。。。。