ちいた~まともな、評論も出てきたぜ。
松江市民は、声を上げないか?
記事にGO!クリックな!
ところで、連休はいろいろ行きまくったので、なかなか記事が追いつかん。
まずは、こちらを鑑賞した記事。

歓喜院(かんぎいん)は、埼玉県熊谷市妻沼(めぬま)にある高野山真言宗の仏教寺院である。我が家から、20分程のご近所でもある。
日本三大聖天の一つとされ、「埼玉の小日光」とも言われる。参拝客や地元住民からは「妻沼聖天(めぬましょうでん)」「(妻沼の)聖天様」などと呼ばれている。

寺伝では治承3年(1179年)に、長井庄(熊谷市妻沼)を本拠とした武将齋藤別当実盛が、守り本尊の大聖歓喜天(聖天)を祀る聖天宮を建立し、長井庄の総鎮守としたのが始まりとされている。その後、建久8年(1197年)、良応僧都(斎藤別当実盛の次男である実長)が聖天宮の別当寺院(本坊)として歓喜院長楽寺を建立し、十一面観音を本尊としたという。
中世には忍(おし)城主の庇護(あののぼうの城の忍城な)・近世初頭には徳川家康によって再興されたが、寛文10年(1670年)の妻沼の大火で焼失。現存する聖天堂(本殿)は、享保から宝暦年間(18世紀半ば)にかけて再建されたものである。平成15年から平成23年まで本殿の修復工事が行われ、平成22年11月18日に本体工事の竣功式を、平成23年6月1日に竣功奉告法会を執行し、同日から一般公開が始まっている。平成24年 聖天堂(本殿)は国宝に指定された。
この齋藤別当実盛・・源義朝と、その弟・義賢という両勢力のハザマにゆれる。実盛は始め義朝に従っていたが、やがて地政学的な判断から義賢の幕下に伺候するようになる。義朝の子・源義平は、久寿2年(1155年)に義賢を急襲してこれを討ち取る。
実盛は再び義朝・義平父子の麾下に戻るが、一方で義賢に対する旧恩も忘れておらず、義賢の遺児・駒王丸を畠山重能から預かり、駒王丸の乳母が妻である信濃国の中原兼遠のもとに送り届けた。この駒王丸こそが後の木曾義仲である。
保元の乱、平治の乱においては上洛し、義朝の忠実な部将として奮戦する。義朝が滅亡した後は、関東に無事に落ち延び、その後平氏に仕え、東国における歴戦の有力武将として重用される。最後は、平家に仕えて討ち死にであった。
その最後・・維盛らと木曾義仲追討のため北陸に出陣するが、加賀国の篠原の戦いで敗北。味方が総崩れとなる中、覚悟を決めた実盛は老齢の身を押して一歩も引かず奮戦し、ついに義仲の部将・手塚光盛によって討ち取られた。
義仲は人前をはばからず、討ち取られた首にすがり泣いたという・・・

写真・その国宝の本堂正面。
国宝になったと・・・見に行っただよ。

本堂南から裏手を望む。
十数億をかけ、彩色の復元がなされたようである。


本当に見事だった!日光に引けをとらないな・・・あの有名な左甚五郎の彫り物もある。
川に落ちる猿(煩悩のかたまりの人間だそうだ)それを救う鷹(聖天様らしい)。

呑んでも呑んでも減らない甕とお酒らしい・・・欲しい!


右から・・鯉がやがて、シャチになり・・シャチは飛龍になる。

やがて、滝を上り登竜門をくぐったものが、龍になるらしいぜ?!

地元ボランティアなど活躍。
時間が定まっているが、解説付きで見ることもできる。


ところで、仁王門・・・その前の灯篭を覗き込む息子・・・

参ったな~~こやつ、気持ち良さそうに寝てるのだが・・・・
なにも、ここで寝なくても・・・・拝観して、40分後・・・まだこのまま寝てました。


ちなみに、ここは、大きくて長い「いなりずし」が有名で、すし屋さんがたくさんあります。僕らは団子でした。
いや、実に良いばしょだ!
今度海坊主がやってきたら、連れてゆくのだ!!
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ところで、連休はいろいろ行きまくったので、なかなか記事が追いつかん。
まずは、こちらを鑑賞した記事。

歓喜院(かんぎいん)は、埼玉県熊谷市妻沼(めぬま)にある高野山真言宗の仏教寺院である。我が家から、20分程のご近所でもある。
日本三大聖天の一つとされ、「埼玉の小日光」とも言われる。参拝客や地元住民からは「妻沼聖天(めぬましょうでん)」「(妻沼の)聖天様」などと呼ばれている。

寺伝では治承3年(1179年)に、長井庄(熊谷市妻沼)を本拠とした武将齋藤別当実盛が、守り本尊の大聖歓喜天(聖天)を祀る聖天宮を建立し、長井庄の総鎮守としたのが始まりとされている。その後、建久8年(1197年)、良応僧都(斎藤別当実盛の次男である実長)が聖天宮の別当寺院(本坊)として歓喜院長楽寺を建立し、十一面観音を本尊としたという。
中世には忍(おし)城主の庇護(あののぼうの城の忍城な)・近世初頭には徳川家康によって再興されたが、寛文10年(1670年)の妻沼の大火で焼失。現存する聖天堂(本殿)は、享保から宝暦年間(18世紀半ば)にかけて再建されたものである。平成15年から平成23年まで本殿の修復工事が行われ、平成22年11月18日に本体工事の竣功式を、平成23年6月1日に竣功奉告法会を執行し、同日から一般公開が始まっている。平成24年 聖天堂(本殿)は国宝に指定された。
この齋藤別当実盛・・源義朝と、その弟・義賢という両勢力のハザマにゆれる。実盛は始め義朝に従っていたが、やがて地政学的な判断から義賢の幕下に伺候するようになる。義朝の子・源義平は、久寿2年(1155年)に義賢を急襲してこれを討ち取る。
実盛は再び義朝・義平父子の麾下に戻るが、一方で義賢に対する旧恩も忘れておらず、義賢の遺児・駒王丸を畠山重能から預かり、駒王丸の乳母が妻である信濃国の中原兼遠のもとに送り届けた。この駒王丸こそが後の木曾義仲である。
保元の乱、平治の乱においては上洛し、義朝の忠実な部将として奮戦する。義朝が滅亡した後は、関東に無事に落ち延び、その後平氏に仕え、東国における歴戦の有力武将として重用される。最後は、平家に仕えて討ち死にであった。
その最後・・維盛らと木曾義仲追討のため北陸に出陣するが、加賀国の篠原の戦いで敗北。味方が総崩れとなる中、覚悟を決めた実盛は老齢の身を押して一歩も引かず奮戦し、ついに義仲の部将・手塚光盛によって討ち取られた。
義仲は人前をはばからず、討ち取られた首にすがり泣いたという・・・

写真・その国宝の本堂正面。
国宝になったと・・・見に行っただよ。

本堂南から裏手を望む。
十数億をかけ、彩色の復元がなされたようである。


本当に見事だった!日光に引けをとらないな・・・あの有名な左甚五郎の彫り物もある。
川に落ちる猿(煩悩のかたまりの人間だそうだ)それを救う鷹(聖天様らしい)。

呑んでも呑んでも減らない甕とお酒らしい・・・欲しい!


右から・・鯉がやがて、シャチになり・・シャチは飛龍になる。

やがて、滝を上り登竜門をくぐったものが、龍になるらしいぜ?!

地元ボランティアなど活躍。
時間が定まっているが、解説付きで見ることもできる。


ところで、仁王門・・・その前の灯篭を覗き込む息子・・・

参ったな~~こやつ、気持ち良さそうに寝てるのだが・・・・
なにも、ここで寝なくても・・・・拝観して、40分後・・・まだこのまま寝てました。


ちなみに、ここは、大きくて長い「いなりずし」が有名で、すし屋さんがたくさんあります。僕らは団子でした。
いや、実に良いばしょだ!
今度海坊主がやってきたら、連れてゆくのだ!!