続いて談山神社。
秋は絶景となります。
少し山側に入るだけで、ずいぶん涼しい。
さぞやカラフルであったであろう、装飾が良い感じの古さで味があります。
ここは藤原鎌足が祭ってあり、効能?は受験の神様であります。
今年は鎌足公がなくなってから、1350年とのこと。
十三の塔。
大化の改新の始まり。
豪族支配から、天皇中心の政治に改革を進める。
蘇我の入鹿暗殺の相談。
645年、乙巳の変。中大兄王子が入鹿の首を跳ねて、豪族支配から天皇制へ。
大化の改新は、遣唐使の知識を得て制定されたものだけど、天皇は居るものの、かなり社会主義的な内容です。
以下、大化の改新のあらましをウィキから引用。
- それまでの天皇の直属民(名代・子代)や直轄地(屯倉)、さらに豪族の私地(田荘)や私民(部民)もすべて廃止し、公のものとする。(公地公民制)
- 初めて首都を定め、畿内の四至を確定させた。また今まであった国(くに)、県(あがた)、郡(こおり)などを整理し、令制国とそれに付随する郡に整備しなおした。国郡制度に関しては、旧来の豪族の勢力圏であった国や県(あがた)などを整備し直し、後の令制国の姿に整えられていった。実際にこの変化が始まるのは詔から出されてから数年後であった。
- 戸籍と計帳を作成し、公地を公民に貸し与える。(班田収授の法)
- 公民に税や労役を負担させる制度の改革。(租・庸・調)
その後、お飾りみたいな孝徳天皇と後を引き継ぐ皇太子となった中大兄皇子(改新のリーダー)が仲たがいし、孝徳天皇は孤立して憤死したとのこと。
ついでに、憤死を調べると、激しい怒りのうちに死ぬことらしい。そんなことってあるんや。医学的には脳溢血?
結局、徳川家が天下統一する1600年までの1000年ほど、豪族が貴族、戦国大名に変わっただけみたいです。
今でも公民、公地はなし。
旨く行かなかった大化の改新。
天皇制への改新がめでたく失敗したと考えて良いのでしょうか。
ザトウムシ。よく見ると光が透けて綺麗です。
今度は紅葉の時にこよっと。
帰り道、棚田に彼岸花。
カメラマンがあちこちで構図を練ってました。