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退職オヤジのひとりごと

退職オヤジが直面する新しい日々…感動か困惑か?
カオスの日々を綴ります

メディアトレーニング

2021年09月11日 20時33分24秒 | 雑感


私は総裁選の選挙権を持っていません。

それに、この騒ぎは「自民党の衆院選戦略」と思っているので、総裁選には興味ありません。


前にも書きましたが、政治家は話題にならないことは致命的だと考えていると思うからです。
この時期総裁選をやる自民党のうまさでしょう。


しかし、衆議院選挙のことを意識して少し考えてみました。


自民党と野党とには大きな違いを感じるものがあります。


攻める側と守る側、実績を語れる側と非難しかできない側の違いはあるのですが、一番の違いは「メディア対応」と感じます。

つまり、自民党はメディアトレーニングができている。(野党もしてそうですが、自民のほうが上手いと感じます)


メディアトレーニングの目的は、メディア対応に伴う社会的責任をしっかりと認識し、メディア報道の特性を十分に知ったうえでの対応力を身につけることだそうです。


対応者の発言に嘘やごまかしの疑いがかかると、メディアはしつこく取材を続けます。
発言を覆す事実が発掘されると報道は過熱し、さらに社会が受け入れがたい発言があれば、全メディアをあげての批判が始まります。(今はメディア間の団結はなさそうですが)
その結果、対応者個人だけではなく、所属する組織の信用と価値を地に落としてしまいます。


これは、守るための技術で、守る対象は自分です。

政治家は、この技術に長けている(トレーニングを積んでいる)のだと感じるのです。

 


総理記者会見

2021年09月10日 07時02分53秒 | テレビを見ました


NHKの首相記者会見を見ました。


自分の聞く力が足りないせいか、質問に対して答えが対応しているとは思えなかった。

質問も漠然としたものが多く、答える側も漠然とした回答になったからなのだろう。


シンガポールの記者さんの質問は解りやすかった。答えはやはり少しズレていた気がする。


最初の総理挨拶は、選挙運動のような新しくもない実績?の羅列で、イライラした。


コロナ禍終息(見込み)が見えない中で、首相が二度も退陣することとなった。
「総裁選よりコロナ対策」が退陣の理由と言いつつ、米国訪問へ出向く発言と行動のズレに対して、ストレートに質問する記者がいなかった。


総裁選不参加による退陣表明とコロナ対策等の内政外交政策全般と質問が分散し、深みがなかった。

会見の後半の放送はされなかったが、やはり質問を途中で打ち切ってしまったと聞く。

最初挙手した記者の質問は全て聞き答えるぐらいのシステムであってほしいと感じる。

やはり、フリーランスの記者が無視される記者クラブの弊害なのだろうか。

 

たった1時間で党総裁と総理大臣の立場の違う会見を済ますことなどとうていできるはずもなく、説明し尽くしたと云えるものではない。


先のない総理なので、過去を振り返ることしかできない会見は、一体何のためなのかと思う。

「また来週にでも改めて記者会見をしたい」と言ったそうだが、あてにならない。

会見の仕方も、安倍政権を踏襲している。

 


政治家の議論や記者会見では、質問とは関係のない発言に解答時間の大部分を割き、結論は「状況を見て適切に判断する」とか「諸外国と連携をとりながら適切に対処する」などという言葉でお茶を濁す。

報道番組でのコメントでも常に感じる。


安倍前首相が使いまくった、いわゆる『ご飯論法』程ではないにしても、質問者に「回答は得られない諦め」に近い感覚が残る。

「政治家を諦める」ことは、「日本を諦める」ということに繋がってしまうのではないだろうか。

 


いつも思うのは、
日本語は、Yes・Noを言葉の最後に持ってくることができる。

?に対し、Yes・Noから始まる英語とは違う気がする(中学英語のレベルですが)。


こんな日本語の特性や、政治家の「メディアトレーニング」の成果にマスコミが打ち負かされている気がする。

 


オリンピック・パラリンピックを終えて②

2021年09月08日 21時00分29秒 | 雑感


パラリンピック開催について感じたことを書きます。

大会開催の疑問点は、オリンピックを終えて①で書きました。


パラリンピック競技は、オリンピック同様、相手にだけでなく自分に勝った人たちに注目する大会です。

私が知らなかった種目も多く、そこに新しい発見が数多くありました。

小学生が『ボッチャ』をやってみたいと云っていたことが印象的でした。

 


そして、オリンピック以上に自分に勝った人たちにフォーカスしています。

それは競技者同士も同様で、オリンピックで飛び込み12位の寺内健選手に万雷の拍手が送られたことや、スケートボードパーク4位に沈んだ岡本碧優選手を他国の選手が賞賛したことのような場面が、パラリンピックでは至る処で当たり前のように繰り返されていました。

 


パラリンピックが私たちに示したものとは、いったい何だったのでしょう?


日本の障碍者に「頑張れ!」とエールを送っているのでしょうか。


私には、むしろ「頑張ろうとしている方々が安心して頑張れる社会を創れ!」と社会に課題が突き付けられた気がしてならない。

 


私は、小中高大と身近に障碍者のいない生活を送ってきました。
そんな私が、初めて特別支援学級が併設されている学校に赴任した時の衝撃は、未だに忘れることができません。


ある日の朝礼の時のことでした。

情緒学級の生徒が、体育館に入った途端に興奮して奇声をあげました。

私は驚きました。

それは「障碍の重さ」にではなく、その奇声に過度に反応することなく優しく見守り、校長先生の話を聞いている一般生徒達の存在でした。


恥ずかしいことに、私は動揺していたのです。


私は体育館の中にいる多くの人の中で、唯一障碍者を理解していなかったことを知りました。


私は障碍者を差別した経験はないと自負していました。しかし、心にバリアーがあったのではないかと考え込んでしまったことを、今でも忘れません。

 


社会に突き付けられた課題は、個人に課せられたものともいえるでしょう。

 


パラリンピアンの笑顔を見ていて考えてしまいました。

 


オリンピック・パラリンピックを終えて①

2021年09月07日 21時43分15秒 | 雑感


オリンピック開催は、やはり疑問が残ったと思う。


①開催時期の不自然さ・・・誰もが知る真夏の東京はスポーツイベントには適さない。

②コロナ禍での開催の是非1・・・ルールの下にフェアであるべきスポーツで予選が開催されない地域があったこと、参加したくてもできない地域があったこと、それ自体、オリンピック精神に反するのではなかったか。

③コロナ禍での開催の是非2・・・バブル方式などと云う有名無実の形式を盾にとってコロナ禍にもかかわらず、バブルの外側を無策のまま押し通した。

④コロナ禍での開催の是非3・・・オリンピックの閉幕後に、東京での感染拡大はピークを越えた。このことは、オリンピック開催と感染拡大の因果関係を表しているに他ならない(そのことは日本人がパラリンピックにそれほど興味がないということかもしれない)

⑤開催の目的がぶれていた・・・『復興五輪』というテーマに無理があった。
  なぜ東日本大震災からの復興が「東京」だったのだろうか。
  いつの間にか『コロナに打ち勝ったことの証』にすり替わった。
  政権維持のプロパガンダに利用されていたことは、誰が見ても明白だった。
それらは、アスリートファーストとはほど遠い変遷であり、そのどれもが満足いく形まで達成できているとは思えないもになった。

 


アスリートの活躍そのものは、メダルの数などは度外視して、とても感動的なものでした。

 

アスリート自身が感じる感動には「五輪」というステージが大きいと云えるでしょうが、観戦する側が感じる感動は、国旗掲揚と国歌演奏以外通常の世界選手権の延長線上ではなかったか。
これはコロナ禍での開催というトゲが、感動に対してもTV観戦のそれのように少し冷めたものに変えてしまったことからくるものの気がする。

コロナに打ち勝ってはいない現実がそこにあったということでしょう。

 


オリンピックと世界選手権の違いはというと・・・

クーベルタン男爵のスピーチ
「オリンピックで最も重要なことは、勝つことではなく、参加したということである。これは人生において最も重要なことが、成功するかではなく、努力したということと同じである。本質的なことは勝ったかどうかではなく、よく闘ったどうかである」

クーベルタンの姪の息子のジョフロワ・ド・ナヴァセルは、
 「誤解してはいけない。ただ参加することに意義があるのではなく、よく闘うことが大切だとピエールは言いたかったのだよ」と。

 

武器で相手と戦うのではなくはなく、ルールのあるスポーツで相手とともに自分とも闘うことなのでしょう。

オリンピック休戦なんてこともあります。
(2019年の第74回国連総会において、国際オリンピック委員会や外務省の協力のもと、186カ国が共同提案国となり、東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会開催期間中のオリンピック休戦決議が採択された)

 


記憶に残るのが、
2000年シドニー大会競泳に出場した赤道ギニアのエリック・ムサンバニ氏の泳ぎです。
彼は、持ちタイムがオリンピック参加標準記録に達しておらず、各加盟国・地域に男女1人ずつ与えられる特別枠、ワイルドカードで出場した選手です。

ワイルドカードの3人のうち2人は「ヨーイ」の声で飛び込んでしまってフライングで失格。残ったムサンバニはひとりで泳ぐ羽目になりました。
まるでもがいているようなその泳ぎは印象的で、なんとかゴールにたどり着きました。
その記録1分52秒72は、優勝したオランダのピーター・ホーヘンバンドの記録48秒30から1分以上も遅い、オリンピック史上最も遅い記録でした。
それでも、会場を揺るがす拍手をうけて、ムサンバニには笑顔があふれて、「泳ぎきることが目標だったから、金メダルを獲ったようにうれしい」と胸を張りました。赤道ギニア新記録でもあったようです。

 


そして、教科書にも載った前回の東京オリンピックでは(私の記憶にはありませんでしたが)男子1万メートル『ゼッケン67』ラナトゥンゲ・カルナナンダ氏(セイロン(当時))。

彼は、残り3分間はたった1人で陽の落ちたトラックを走り続けました。
そんな彼に、国立競技場を埋めた観衆が声をあげて、はじめは冷やかし、やがてその声は大きなうねりになりました。
そして力を振り絞ったカルナナンダが最後のラストスパートでゴールしたとき、7万観衆からは優勝したミルズよりも、6位入賞した円谷よりも、さらに大きな拍手が起きました。
東京大会から7年後、最後まで走りぬいたヒーローは『ゼッケン67』として日本の教科書(光村図書出版の『小学新国語四年下』)に載ったのでした。


私の思うオリンピックは、相手に勝つことと同じように自分に勝った人たちに注目する大会です。

市川崑監督がフォーカスしたあの映像の人たちのようにです。


そんなことを「夏草や兵どもが夢の後」に感じました。

 


総裁選挙に振り回されるマスコミ

2021年09月06日 22時48分57秒 | 雑感


自民党総裁選挙について、マスコミの騒ぎ方が尋常じゃありません。

コロナ禍かそれ以上の扱いです。

 


誰が出馬して、何を考えているか(何をするかではない)がそんなに重大な事なのだろうか。


自民党総裁 = 総理大臣 であるから仕方がないが、

『総裁になったら何をする』・・・なんて公約っぽく言う理想は、あんまり意味が無い。

だって、今までだって綺麗なことを言っていたが実践しないし、説明しないし、責任とらないのだから。


「菅義偉」氏については少し解ってきたし、「自民党総裁候補者」についてもマスコミが伝えている。

しかし私たちは、政権与党の「山口那津男」氏のことをどれだけ知っているのだろうか(マスコミはどれだけ伝えてくれているのだろうか)。

ましてや、「枝野幸男」「松井一郎」「 志位和夫 」「玉木雄一郎」「福島瑞穂」「立花孝志」「山本太郎」「中山成彬」各氏のことはどれだけ知っているのだろうか、どれだけ取り挙げられているのだろうか。

わたしにはよく解らない。(枝野ビジョンという本は読みましたが・・・)

 


こんな状況で、自民党総裁選挙に大騒ぎすることは、来たるべき衆議院選挙の事前運動(宣伝活動)となっているのではないか。

結果、マスコミは政権与党に偏った報道をしている事にはならないのか?

政治家は、話題に上がらない事が一番辛いのではないか。


それでいて、選挙が告示されると、マスコミは『政治的に公平であること』と規定している放送法第4条2から、総務省ににらまれることを理由に報道の矛先が鈍る。(許認可権を総務省が持っていて、官僚の人事権は内閣が持っている)

また、選挙時期になると、政権等がメディアに対して「このような報道をしなさい」と事細かくお願いしてくることもあるようです。

 


マスコミは、政権与党にしてやられているのです。

上手いことプロパガンダの片棒を担がされている気がしてならない。

 


繰り返すが、政治家は、話題に上がらないことが一番つらいのだと思う。

 


小選挙区制度は、政権交代を目指して実施されたものだけれど、そのもくろみは見事に外れた。

これは、「野党がだらしない」だけでは無い気がする。

その原因は、たった一度の躓き(2009年からの民主党政権)で政権を自民党以外に託す勇気を持てなくなった国民の「変化を嫌う気質」にあるのではないか。


「権力は手にした瞬間から腐敗が始まる」といいます。

最初は良くても、長く続くと金属疲労が起こるのは、世界の長期政権を見ても頷けることです。

                 
私は『反自民党』というわけではないけれども、こんなにも問題が多く、しかも公文書改竄問題など面の皮で黙殺してしまう体質の現政権は、代わらなくてはいけない。

野党のためにも、与党のためにも、そして日本のためにも。

 

・・・と心から思うのです。

 

 

 

参考資料: 「選挙期間中のメディア報道」について考える
 https://news.j-wave.co.jp/2017/10/post-4311.html