日本に来る前、心理学科のKruschke先生と子供の話になりました。今は大学生のお子さんが小さいころ「このことはきっと一生忘れないだろう」と思った印象的な場面も、いまやぼんやりとしか覚えていないんですよ、と話してくれました。「ビデオとか写真ではなく、記憶に刻み付けろ」という意見も聞きますが、うちの娘についても、本人(とそのパートナー)があとで見るためにも、できるだけ残しておきたい。この滞在中も折に触れて写真・ビデオを残すよう努めました。
さて、その娘は現在1歳10ヶ月。使える言語項目が増加中。最初は名詞がほとんどだったのが、最近は動詞の習得が進行中。思いつく範囲でも「ある、いく、くる、見る、入れる、上がる、下りる、飲む、食べる、掛ける、寝る、押す、開ける、閉める、塗る、貸す、待つ、混ぜる、走る」など。理解する動詞はもちろんこれよりうんと多い。
また、ここ一ヶ月ほどで動詞の活用形を使い分けるように。「おりる」(go down)を例にとると、最初はいわば一人称(I go down)と、依頼形(Let me go down)が分離。前者は「おり」と語幹だけのような形。後者は「おりて」といわゆる「テ形」。命令の意味(Go down!)でも使う。いまだ他動詞は使わず、「おろして」とは言わない。前者が、入力にはそのままの形ではないのが不思議。日本に来て以降、前者が「おりる」と学校文法でいう「終止形」に変化。さらに最近、「おりたい」という「意思形」と、「みえない」「できない」といった、否定形も一部の動詞について使用開始。
昨日、娘より一歳年上のいとこに会いましたが、彼はもう複雑な文章をどんどん使うようになっていました。あと一年でそんなになるものなのか。でも、ここのところニョーボの話し方をまねて、「かえで、と…おばあちゃん、と… あと~」と長い文章を言いたそうな意思を示していて、二語文を使う準備は彼女の中で進行しているように見えます。
音声の面で興味深いのが、ほとんどの語(=文)を、最初は頭高型のアクセント形で発音していたこと。他のアクセント型ももちろん聞いているはずですが、それは使わず、なんでも頭高(ちなみに、アメリカにいるため日本語の入力は父母からが圧倒的、両者ともアクセントは東京式)。アクセントも習得したけど、とりあえず頭高型の生成だけ出来るようになったらしい。最近は違う型(平板っぽい)も使うようになってきました。たとえば、自分の名前は平板型。
名詞の習得も進行中。昨日の食事中にゆで卵を指さして[mankako]とつぶやく。[tamago]という語形をいわば「復習」していたのですが、上手く取り出せなかったか、生成できなかったか、Segmentをごちゃまぜに並べた。でも母音は動かさず、子音をあちこち並べなおし。ただし、子音をそのまま移動したのではなくて、もうちょっとフクザツ。[t]が消えて[k]が二つになってるのは、「だっこ」がしばしば「がっこ」になってしまうのと関係ある? 音節構造まで変わってるのは、たまたまでしょうか。こんな語音並べなおし例が、ここ数週間でしばしば聞かれます。
音韻論の観点からもおもしろそうだけど、個人的により興味深いのは、原則としてSegment単位で移動してること。うちのPort先生のような、Exemplar theoryの強いバージョンに立って、Segmentはアルファベット文化のもたらす錯覚で、言語処理の単位ではない、とする人もいるようですが、他の多くの例と同じくこの例も、やっぱりSegmentという単位になんらかの心理的実在性がある、ということを示していそうに思います。
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写真は話題とは無関係で、徳島・阿波池田から大阪へ向かう途中の、淡路島の高速PAにいた猫。
さて、その娘は現在1歳10ヶ月。使える言語項目が増加中。最初は名詞がほとんどだったのが、最近は動詞の習得が進行中。思いつく範囲でも「ある、いく、くる、見る、入れる、上がる、下りる、飲む、食べる、掛ける、寝る、押す、開ける、閉める、塗る、貸す、待つ、混ぜる、走る」など。理解する動詞はもちろんこれよりうんと多い。
また、ここ一ヶ月ほどで動詞の活用形を使い分けるように。「おりる」(go down)を例にとると、最初はいわば一人称(I go down)と、依頼形(Let me go down)が分離。前者は「おり」と語幹だけのような形。後者は「おりて」といわゆる「テ形」。命令の意味(Go down!)でも使う。いまだ他動詞は使わず、「おろして」とは言わない。前者が、入力にはそのままの形ではないのが不思議。日本に来て以降、前者が「おりる」と学校文法でいう「終止形」に変化。さらに最近、「おりたい」という「意思形」と、「みえない」「できない」といった、否定形も一部の動詞について使用開始。
昨日、娘より一歳年上のいとこに会いましたが、彼はもう複雑な文章をどんどん使うようになっていました。あと一年でそんなになるものなのか。でも、ここのところニョーボの話し方をまねて、「かえで、と…おばあちゃん、と… あと~」と長い文章を言いたそうな意思を示していて、二語文を使う準備は彼女の中で進行しているように見えます。
音声の面で興味深いのが、ほとんどの語(=文)を、最初は頭高型のアクセント形で発音していたこと。他のアクセント型ももちろん聞いているはずですが、それは使わず、なんでも頭高(ちなみに、アメリカにいるため日本語の入力は父母からが圧倒的、両者ともアクセントは東京式)。アクセントも習得したけど、とりあえず頭高型の生成だけ出来るようになったらしい。最近は違う型(平板っぽい)も使うようになってきました。たとえば、自分の名前は平板型。
名詞の習得も進行中。昨日の食事中にゆで卵を指さして[mankako]とつぶやく。[tamago]という語形をいわば「復習」していたのですが、上手く取り出せなかったか、生成できなかったか、Segmentをごちゃまぜに並べた。でも母音は動かさず、子音をあちこち並べなおし。ただし、子音をそのまま移動したのではなくて、もうちょっとフクザツ。[t]が消えて[k]が二つになってるのは、「だっこ」がしばしば「がっこ」になってしまうのと関係ある? 音節構造まで変わってるのは、たまたまでしょうか。こんな語音並べなおし例が、ここ数週間でしばしば聞かれます。
音韻論の観点からもおもしろそうだけど、個人的により興味深いのは、原則としてSegment単位で移動してること。うちのPort先生のような、Exemplar theoryの強いバージョンに立って、Segmentはアルファベット文化のもたらす錯覚で、言語処理の単位ではない、とする人もいるようですが、他の多くの例と同じくこの例も、やっぱりSegmentという単位になんらかの心理的実在性がある、ということを示していそうに思います。
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写真は話題とは無関係で、徳島・阿波池田から大阪へ向かう途中の、淡路島の高速PAにいた猫。
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