鏡文字最盛期だったころ、写真のTシャツを着ていた娘と歯磨きをしていたら、洗面所の鏡に映った文字を「ち・び・は・げ」と声に出して読みました。文字をある程度覚えて、目にした文字を読んでみたがる時期で、読むのはまだたどたどしかった(今でもスムーズとはいえない)にもかかわらず、左右逆の「ち」や「は」が読みにくくて混乱する私と違って、鏡文字をあまり苦にするようすなし。
鏡に映したとき目に入ってくるのは、実は左右ではなく奥行きが逆になった像で、それを人間(の脳)が経験して知っている世界に合致するよう解釈した結果、左右逆という結論に至る、というようなことらしいのですが、未だにそのリクツを把握できないでいます。
娘にはそういった知覚システムがまだ確立していなかったので、鏡に映った「ちびはげ」はわれわれと違って左右逆とは知覚されず、だからわりと容易に読めたのでしょうか。昨日の記事のように、われわれから見たら左右逆の文字を書いても、おかしいとは思わないようす。だとするとむしろ、大人が使う文字も、それを左右逆にしたものも「同じもの」と知覚できるような、(大人から見れば)なにやらとても融通の利く状況にあるのかも。
最近は、鏡文字も減り、手紙を書いても便せんの中を縦横無尽にくねくね、あるいはぐるぐると書き進んでいくこともなくなり、一定の方向に書くようになってきました。われわれが常に従っている慣習を意に介さない柔軟さ(?)がうらやましく思えるほどだったので、ちょっと残念。音声知覚の発達などで言われているのと同様、文字についても人は、発達の過程である能力を捨てることによって、大人と同じ、人間社会でうまく機能する認知を手に入れる、ということなのかもしれません。
鏡に映したとき目に入ってくるのは、実は左右ではなく奥行きが逆になった像で、それを人間(の脳)が経験して知っている世界に合致するよう解釈した結果、左右逆という結論に至る、というようなことらしいのですが、未だにそのリクツを把握できないでいます。
娘にはそういった知覚システムがまだ確立していなかったので、鏡に映った「ちびはげ」はわれわれと違って左右逆とは知覚されず、だからわりと容易に読めたのでしょうか。昨日の記事のように、われわれから見たら左右逆の文字を書いても、おかしいとは思わないようす。だとするとむしろ、大人が使う文字も、それを左右逆にしたものも「同じもの」と知覚できるような、(大人から見れば)なにやらとても融通の利く状況にあるのかも。
最近は、鏡文字も減り、手紙を書いても便せんの中を縦横無尽にくねくね、あるいはぐるぐると書き進んでいくこともなくなり、一定の方向に書くようになってきました。われわれが常に従っている慣習を意に介さない柔軟さ(?)がうらやましく思えるほどだったので、ちょっと残念。音声知覚の発達などで言われているのと同様、文字についても人は、発達の過程である能力を捨てることによって、大人と同じ、人間社会でうまく機能する認知を手に入れる、ということなのかもしれません。
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