またIMUにサッカーを見に来ました。観衆20人くらい、常連で知った顔もいるのですが(ぜんぶ男)相変らず会話なし。みんなでチェコvsガーナを観戦。自国と関係ないばあい判官びいき傾向があるらしく、ガーナの寄りの雰囲気。
試合はガーナの圧勝。チェコは予想通りセンターFWコレルの離脱が致命的。代役のロクベンツではまったくボールがポストに収まらず、ためが作れないので、ひたすらドリブルで仕掛ける単調な試合運び。一方のガーナは上手に緩急を使い分けて、あせるチェコの守備網をずたずたに。チェヒが神掛かったセーブをいくつも決めていなければ、4-0、5-0の試合だったかも。彼ら、初出場なんですよねえ。。。 Abudraiは国でさぞや喜んでいるでしょう。
今回、サプライズを起こすと予想したコートジボワールは敗退が決まりましたが、内容はすばらしいもので、オランダ戦ではオランダの応援団からも応援が飛ぶほどだったとか。ボールコントロールもオランダ選手より上、選手の連動もよし、非常に洗練されたサッカーでした。
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昨日そのコートジボワール、今日ガーナを見て、コートジボワールのドログバ選手へのインタビューを思い出しました。そこではあるイギリス人ジャーナリストが彼にこう問いかけていました。
「最近は、アフリカの国々も戦術やテクニック漬けになっていて、アフリカ選手特有の野性味を残している選手があまり見られないように感じる。アフリカ選手権でもスペクタクルな試合は少なく、より組織されたチームが多かった」
彼が、アフリカに期待している「野性味」とか「スペクタクル」とは何なのでしょう? ドログバ選手はこう答えたそうです。
「そうかもしれない。それは、今では多くのアフリカ人選手がヨーロッパでプレーしていることと関係があるだろうね。いつでも世界とかかわりを持っているし、みんな平均化してきている。」
(http://wc2006.yahoo.co.jp/voice/interview/drogba.html)
そのとおり、ガーナも、アッピア、エシエン、ムンタリ、ギャン、などそれぞれのチームで中心選手で、チームからも「野性味」だけを期待されているわけではないでしょう。
ヨーロッパのチームが規格外の力を見せたアフリカのチームに敗れた試合、というと、私が見た範囲では、1998年フランス大会のナイジェリアvsスペインを思い出します。洗練されたスペインが、戦術的にはどうにもまとまりのないナイジェリアの、強烈な3発を浴びて、沈みました。先のインタビューに、そんな「計り知れない、規格外の存在があって、それを征伐する「文明=秩序」側の自分たちを見て楽しむ」という嗜好を読み取ったら、うがち過ぎでしょうか。
そもそも、彼らが戦術を身につけて洗練されたらいけないのでしょうか。アサモア(ガーナ出身でドイツ代表)とか、セードルフ(スリナム出身でオランダ代表)とか、古いところではジャン・ティガナ(マリ出身でフランス代表)が、「野性味がない」と批判されるでしょうか。それはないでしょう、アフリカ出身でも、ヨーロッパのチームにいたら問題にされないことなのです。そして、そういう「洗練されたアフリカ出身選手」のおかげで、たとえばフランスは世界王者になれたわけです。いいことでこそあれ、問題視するようなことではないのでは。実際、「野性味」だけで「洗練」のないサッカーでは時々大波乱は起こせても優勝には届くはずもなく、さきのナイジェリアは結局ベスト16であっさり敗退。これでは、「荒削りで脅威でありながら、最後はわれわれに屈する存在であり続けてくれ」といっているように聞こえるのです。
そういうエゴが、このインタビューに「反映」(含意ではない)されている気がしていました。インタビュアーを責めるのではありません。同様の発想は私にもあります。また、かつて大和勢力が侵略し、屈服させた他地域の部族を「荒夷」とか何とか呼んで、それを「征伐」した自分たちの軍人を英雄扱いしたのともおんなじだ、と思います。
ヨーロッパで活躍する選手が洗練されたのは、地元では得られない成功のチャンスを餌に、時には人買い同然に引っ張られてきて訓練を受けたから、という部分もある。その経済格差が彼らをアフリカの母国ではなく、他国の代表として戦わせる要因でもあります。コートジボアールのカルーが国籍変更してオランダ代表で出ようというのもそういうことが影響しているでしょう。
確かにサッカーは多様性が楽しい競技ではあります。でも、その楽しみのスパイスの一つとしての「野性味」を担当するのが常にアフリカで、そのためにアフリカはこれからも協会組織がめちゃくちゃで、貧しく、政治的にも混乱した状態でいてほしいとは、言えないでしょう(本気でそう思っている人はいると思いますが。たとえば武器を売るために)。
そんな楽しみのためにサッカーがあるのなら、平均化してつまらなくなってもかまわない。アフリカの諸国だって、洗練された選手を生む、オーガナイズされた社会になる権利はあるに決まっています。それで、自分たちが勝てなくなって、つまらなくなったら、ヨーロッパの人たちはたとえばスキーのジャンプでしたように自分たちが勝てるようにルールを変えるのかもしれないし、あるいはW杯なんかなくしてしまうのかもしれません。それでも「お前たちは俺たちの誇りを支えるための「野生」でい続けろ」なんていう趣旨の発言が繰り返されるよりは、はるかにましだ、と思います。
偉そうなことを語ってしまいましたが、つまりは、「洗練」を身につけて、初出場ながらアルゼンチン・オランダにあと一歩まで迫った今回のコートジボワールや、旋風を起こすかもしれないガーナを肯定的に捉えて、今後も注目したい、ということです。また、たとえば、今回のガーナの活躍を見て、アメリカにいるアドゥが、アフリカで始めて開催されるW杯をにらんで「やっぱりガーナで戦う」と言い出したりしたらいいなと思います。
試合はガーナの圧勝。チェコは予想通りセンターFWコレルの離脱が致命的。代役のロクベンツではまったくボールがポストに収まらず、ためが作れないので、ひたすらドリブルで仕掛ける単調な試合運び。一方のガーナは上手に緩急を使い分けて、あせるチェコの守備網をずたずたに。チェヒが神掛かったセーブをいくつも決めていなければ、4-0、5-0の試合だったかも。彼ら、初出場なんですよねえ。。。 Abudraiは国でさぞや喜んでいるでしょう。
今回、サプライズを起こすと予想したコートジボワールは敗退が決まりましたが、内容はすばらしいもので、オランダ戦ではオランダの応援団からも応援が飛ぶほどだったとか。ボールコントロールもオランダ選手より上、選手の連動もよし、非常に洗練されたサッカーでした。
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昨日そのコートジボワール、今日ガーナを見て、コートジボワールのドログバ選手へのインタビューを思い出しました。そこではあるイギリス人ジャーナリストが彼にこう問いかけていました。
「最近は、アフリカの国々も戦術やテクニック漬けになっていて、アフリカ選手特有の野性味を残している選手があまり見られないように感じる。アフリカ選手権でもスペクタクルな試合は少なく、より組織されたチームが多かった」
彼が、アフリカに期待している「野性味」とか「スペクタクル」とは何なのでしょう? ドログバ選手はこう答えたそうです。
「そうかもしれない。それは、今では多くのアフリカ人選手がヨーロッパでプレーしていることと関係があるだろうね。いつでも世界とかかわりを持っているし、みんな平均化してきている。」
(http://wc2006.yahoo.co.jp/voice/interview/drogba.html)
そのとおり、ガーナも、アッピア、エシエン、ムンタリ、ギャン、などそれぞれのチームで中心選手で、チームからも「野性味」だけを期待されているわけではないでしょう。
ヨーロッパのチームが規格外の力を見せたアフリカのチームに敗れた試合、というと、私が見た範囲では、1998年フランス大会のナイジェリアvsスペインを思い出します。洗練されたスペインが、戦術的にはどうにもまとまりのないナイジェリアの、強烈な3発を浴びて、沈みました。先のインタビューに、そんな「計り知れない、規格外の存在があって、それを征伐する「文明=秩序」側の自分たちを見て楽しむ」という嗜好を読み取ったら、うがち過ぎでしょうか。
そもそも、彼らが戦術を身につけて洗練されたらいけないのでしょうか。アサモア(ガーナ出身でドイツ代表)とか、セードルフ(スリナム出身でオランダ代表)とか、古いところではジャン・ティガナ(マリ出身でフランス代表)が、「野性味がない」と批判されるでしょうか。それはないでしょう、アフリカ出身でも、ヨーロッパのチームにいたら問題にされないことなのです。そして、そういう「洗練されたアフリカ出身選手」のおかげで、たとえばフランスは世界王者になれたわけです。いいことでこそあれ、問題視するようなことではないのでは。実際、「野性味」だけで「洗練」のないサッカーでは時々大波乱は起こせても優勝には届くはずもなく、さきのナイジェリアは結局ベスト16であっさり敗退。これでは、「荒削りで脅威でありながら、最後はわれわれに屈する存在であり続けてくれ」といっているように聞こえるのです。
そういうエゴが、このインタビューに「反映」(含意ではない)されている気がしていました。インタビュアーを責めるのではありません。同様の発想は私にもあります。また、かつて大和勢力が侵略し、屈服させた他地域の部族を「荒夷」とか何とか呼んで、それを「征伐」した自分たちの軍人を英雄扱いしたのともおんなじだ、と思います。
ヨーロッパで活躍する選手が洗練されたのは、地元では得られない成功のチャンスを餌に、時には人買い同然に引っ張られてきて訓練を受けたから、という部分もある。その経済格差が彼らをアフリカの母国ではなく、他国の代表として戦わせる要因でもあります。コートジボアールのカルーが国籍変更してオランダ代表で出ようというのもそういうことが影響しているでしょう。
確かにサッカーは多様性が楽しい競技ではあります。でも、その楽しみのスパイスの一つとしての「野性味」を担当するのが常にアフリカで、そのためにアフリカはこれからも協会組織がめちゃくちゃで、貧しく、政治的にも混乱した状態でいてほしいとは、言えないでしょう(本気でそう思っている人はいると思いますが。たとえば武器を売るために)。
そんな楽しみのためにサッカーがあるのなら、平均化してつまらなくなってもかまわない。アフリカの諸国だって、洗練された選手を生む、オーガナイズされた社会になる権利はあるに決まっています。それで、自分たちが勝てなくなって、つまらなくなったら、ヨーロッパの人たちはたとえばスキーのジャンプでしたように自分たちが勝てるようにルールを変えるのかもしれないし、あるいはW杯なんかなくしてしまうのかもしれません。それでも「お前たちは俺たちの誇りを支えるための「野生」でい続けろ」なんていう趣旨の発言が繰り返されるよりは、はるかにましだ、と思います。
偉そうなことを語ってしまいましたが、つまりは、「洗練」を身につけて、初出場ながらアルゼンチン・オランダにあと一歩まで迫った今回のコートジボワールや、旋風を起こすかもしれないガーナを肯定的に捉えて、今後も注目したい、ということです。また、たとえば、今回のガーナの活躍を見て、アメリカにいるアドゥが、アフリカで始めて開催されるW杯をにらんで「やっぱりガーナで戦う」と言い出したりしたらいいなと思います。
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