Piano Music Japan

シューベルトピアノ曲がメインのブログ(のはず)。ピアニスト=佐伯周子 演奏会の紹介や、数々のシューベルト他の演奏会紹介等

「シューベルティアーデ」から離れた「20才のシューベルト」の1年(No.2101)

2012-08-06 21:00:43 | 作曲家・シューベルト(1797-1828
多くの人が感じる

シューベルトの謎



  1. 「シューベルトの友人の詩」になぜ多く歌曲を作曲したのか?


  2. 「同じ舞曲(ワルツやエコセーズ)が、組み合わせを替えたり、単独曲だったり、移調したりしながら、多くの自筆譜が残っているのか?



 実は、私高本も「佐伯周子 ベーレンライター新シューベルト全集に拠るピアノソロ曲完全全曲全曲演奏会」が会場を東京文化会館小ホールに移転した開始の2006年8月以前は全くわからなかった。この「第2回」に演奏した シューベルト作曲作品は『オリジナル舞曲集 作品9 D365』全36曲 だった。この時に、

シューベルトの「舞曲集」1815年からいろいろな組み合わせで量産され、1825年4月までで終わる


ことを知った。

「シューベルト友人の詩」で最も数多く作曲してもらったのが、マイヤーホーファー Johann MAYRHOFER(1787-1836)で、"Am See"D124(1814.12.07) - "Gondelfahre"op.28 D809(1824.03)



 この中には、「歌曲」だけでなく、上記D809 のような重唱もあるし、シューベルト作曲、マイヤーホーファー台本「サラマンカの友人たち」D326 が最大の作品にして傑作もある。

シューベルトの「自筆譜舞曲集」と「マイヤーホーファー作品」は時期がほぼ重なる


ことがおわかり頂けるだろう。この両方の最初と最後は、「シューベルト作曲の岐路」であった。つまり

『シューベルティアーデ』は、1814.12.07 - 1825.04 に花開いた


である。この10年余の間、その後も「友人たちだけで開いた」りしたことは多々あるのだが、シューベルトが「友人の気を引いて新作を持ち込む」ことはほとんど皆無に近かったようだ。マイヤーホーファーはシューベルト死後わずか8年後に自殺してしまったため、「友人の思い出」がほとんど残っていないが、「シューベルトが詩作で最も信頼を置いていた友人」である。歌曲だけでCDで3枚分以上作曲され、重唱曲も多数、オペラ「サラマンカの友人たち」まで書いて、「シューベルティアーデの中心詩人」であった。


 シューベルトが(友人の詩に歌曲を付けるのは量は減ったのだが)細々と続けていたのだが、「舞曲」作曲をきっぱり止めた時期がある。

1817.02 - 1818.02 は、シューベルト「自筆譜舞曲」は無く、代わりに「ピアノソナタ」8曲と「交響曲」1曲が作曲された



「ピアノに向きあっている時間があれば、全てをソナタに注ぎ込んだ」と言っても良い。


ピアノソナタ ロ長調 D575


 1817年の「ピアノソナタ8連作」の最後を飾る作品であり、「単独歌曲の年」で言えば「魔王」作品1 D328 に相当する、とシューベルト自身が感じていた作品。1817年8月作曲が確定している曲だが「1818年8月シュタイアーにて作曲」と言う筆写譜が残っている。この筆写譜は「ヨゼフィーネ・コラー」のピアノ家庭教師をするための楽譜であり、大事に大事に保存されたために現代まで残されている。
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