ニューヨーク在住の素晴らしい芸術家NY金魚さんのこのブログ記事『洪水からの目醒め(3) 翁(おきな)の消えた国に旅立つ翁
』ができるだけ多くの人々に読まれますようにと願いつつー
「ここ」
とても内容深くて感動的だったので、このブログ記事内容を一部アップしたい。
《 -前略ー
ドナルド・キーン先生が日本の国籍をとり永住される」の報は、ニューヨークの秘書氏からではなく、その朝4月15日のNHK海外ニュースで知った。多くの在日外国人が故国に逃げ戻っている時期に、たったひとりのアメリカ人日本学者が日本の国籍をとり、これから東京に移住し、永住する決断をしただけのことなのだが、日本に住む人たちのこころに大きな勇気を与えることになるだろう。
その日の午後、コロンビア大学ケント・ホールで、ドナルド・キーン日本学名誉教授を囲んで、最後のシンポジウムがあった。かってのキーン教室(60年代)の教え子たち(と言ってもそれぞれが全米各地の大学の日本文学の名誉教授たちで、錚錚たるメンバー。写真上)がかれの業績を称え、それぞれが日本の古文を交えた格調の高い讃辞を贈られた。
キーン先生は年始からご体調を崩され、震災直前に東京からニューヨークに戻られていた。日本に永住という話はそれ以前から聴かされていて、今年がコロンビア大での最後の講義になることは、まわりも覚悟していた。そのあと東日本大震災があり、むろん僕を含めてみんなが狼狽し「(NYに)帰ってこられていてよかったですね」などという軽口もあちこちで飛び出した。いまにして思えば、ご本人の日本永住の決断はその大震災にも微動だにしなかった、と推測する。その夕刻、同校東アジア図書館で行なわれた壮行レセプションの際、 少しお話しする機会があり「先生が永住することで、日本の人たちはどんなに勇気をもらうことでしょう」と僕が興奮しながら涙ぐんで言ったことばにも、実に温和に「ずっと以前から決めていたことですから、そんなに深く考えないように」とやさしく釘を刺された。この翁をまえにすると、大抵のひとが子どものように素直になってしまう
人間はいつも自然体で、そのときにいちばん住みたいところに住むのがもちろん理想なのだが、勝手にしがらみを増幅させてしまった凡人の人生では、そううまくはいかないことが多い。震災以来、僕も日本に帰国することを何度も考えてみたが、まわりの邪魔にはなれ、日本の人びとにとってなんの手助けもできないことを思い知りあきらめた。あきらめたもののこの事態に故郷への思いはますますつのり、僕でしかできないなにかがあるはずだ、と思い直しなんとか早々に行く方法を苦慮している。そういった葛藤が祖国に対する思いをより深くする。
NYC在住の友人のひとりは、ヴォランティアのために先週東北地方に旅立った。かれが被災地入りして3日目の4月26日のツイッタ—はこう語る。「ヘルプ!南三陸エリア、水も電気もありません。歌津の田ノ浦という所に、11人が暮らす避難所あり。ここは、簡易トイレもない。『水が欲しい』と言われた。それと発電機! 誰か寄付してくれませんか?」地震発生からもはや50日が経っている。いくら僻地といえども自衛隊のヘリが網羅して水を運べないはずがない。NYCから突然行ったかれが遭遇できて、それまで他のだれもが行かなかったということである。
ここから観ていると東京に住む人びとの関心事は原発事故一色であり、それはもちろん汎地球的にたいへんな事態なのだが、かといって僻地のたった11人のいのちが放っておかれていいわけがない。その列島の政治の仕組み、マスコミの報道、そしてそこに住む人びとを含めた利己的な発想におおきな疑問符を感じてしまう。
震災以来50日、その列島に住む一億の民のすべてが、深く悩み、怒り、悲しみ、葛藤し、その生きざまをさらけ出している。こんなときにこそそのひとがこころの奥で何を考えているか、はっきりと見えてくる。だれかが書いていたが、われわれはいまこそ試されているのだ。
ここに至っても自分の利害しか考えないひとの仮面を被った鬼も出てくれば、神の化身「翁」の面を被り、理不尽な権力に社会倫理で立ち向かう正義漢も現われる。いまの時点で各々の論評はさしひかえ、混乱の列島を能舞台にたとえて、キーン先生とともに観ることにする。もちろん同時にわれわれ自身も演者であるわけだ。
ドナルド・キーン著「能・文楽・歌舞伎」のなかの「能のよろこび」の冒頭部分を引用する。
能は能面にはじまり、そこには神が宿る。「翁」の上演にさきがけ、楽屋では能面を掲げてお祓いの儀式が行われるのだが、能面師が舞台で定位置につくころには面箱持ちが敬意で顔を伏せた能楽師に翁の面を渡す。翁の面は他の面とはちがい、博愛に満ちた老年の男で、おそろしげな面ではないが、それも神を宿すものであり、特別な技巧や情感も必要としない役にもかかわらず相当の困難をともない、能楽師の寿命を縮めるという。
能の最古の演目である「翁」に対しては特別の敬意が払われている。しかし神と関係のない曲も神性の奥義は保たれており、舞台に出る前に能面を着けた能楽師は鏡のなかの己を見つめ、それがであろうと貴族であろうと自らがその男になり切ってゆくのを認めるのである。他の演劇は実生活を映す鏡としばしば言われるが、能では鏡の中の者に成りきろうとするわけだ。(「能・文楽・歌舞伎」ドナルド・キーン・著、松宮史朗・訳、講談社学術文庫)
僕はいま、決して儒教の影が深く落ちた父権性封建社会にもどろうなどといっているのではない。たとえば地下鉄のなかで老人に席をゆずるというなにげない行為が、翁の能面を着けたときの能楽師のように、この社会というもののなかに「俗性」とともに並存している「神性」を映す鏡になり得るのではないかという仮説のようなことを考えている。貧しい国のなかでは、若者はあるいは老齢者に自分自身の未来像を当てはめ、その俗性のなかにそれぞれの神を見出しているのかもしれない
ドナルド・キーン著「能」では、世阿弥のいう「花」と「幽玄」が論ぜられたあと、足利義政の庇護をうけた世阿弥の幸運な前半生が語られる。ほかの著書「足利義政」では、能だけでなくすべて日本文化の源流が、将軍義政にたどり着くという新鮮で明解な発想が示されているが、長くなるのでいずれ別稿で論じたい。 -後略ー》