ご存知休日のコーヒータイム。
こういう野外でのコーヒータイムを私は以前野点(のだて)コーヒーと呼び専用のセットまで作りましたました。
でも、この時の相方はシンプルな緑つっぺ。

このひと時。
こうう時だけが、私はのんびり、じっくり、土や草のかおり、
そして風と空の動きを楽しむことができるのです。
むろん手ぶらでそれらをのんびり楽しむこともできるのでしょうが、
生来イラチ(気の短いもの)である私には、何もせずのんびりがなかなかに難しい。
ですが、こうして火をつけお湯を沸かす間、
そして入れたコーヒーを飲む間は、嫌が応にもじっとしてねばならないわけで、
そういう時には、
「ああ、今こんな感じなのか…」
と、時折々の風の流れ、草土のにおい、空の移り変わり、
そういったものを文字通り肌で感じ取っては、しっかりと味わうことができるのです。
だから、私にとっては休日のこういう野点コーヒーは
それらを味わうために必要な仲介人のようなもので、
言い換えれば、私は、そういうワンクッションあってこそ、
目の前の自然や風景をじっくり楽しむことができていると言えるのです。
何か変な感じもしますがね。
でも、そう考えると私にとっての野点コーヒーは、
ある意味額縁やフレームのようなもので、そこを通してみて初めて、
目に映る対象が鑑賞すべき作品になるのではないだろうか、
と、そう思ったりもするのですよ。
というのも、コーヒーを淹れる場所が、たとえ見どころのない街角であったとしても、
恐らく見どころなどどこにもないと思われる、そういう光景でも、
そんな場合でも、それなりに結構楽しく眺めることができているから。
だから、やはり私のとって野点コーヒーというのは、風景との仲介人。
だからこそ、必要不可欠な相方のストーブは、
時には身軽でシンプルなものほどよく合うのかなとか思ったりします。
むろん、主張の強い凝ったストーブもいいのですが、
そうなると、それが主役になりすぎるから、なかなか目が風景に向かないのです。
(=^^=)ゞ
*動画*
こういう野外でのコーヒータイムを私は以前野点(のだて)コーヒーと呼び専用のセットまで作りましたました。
でも、この時の相方はシンプルな緑つっぺ。

このひと時。
こうう時だけが、私はのんびり、じっくり、土や草のかおり、
そして風と空の動きを楽しむことができるのです。
むろん手ぶらでそれらをのんびり楽しむこともできるのでしょうが、
生来イラチ(気の短いもの)である私には、何もせずのんびりがなかなかに難しい。
ですが、こうして火をつけお湯を沸かす間、
そして入れたコーヒーを飲む間は、嫌が応にもじっとしてねばならないわけで、
そういう時には、
「ああ、今こんな感じなのか…」
と、時折々の風の流れ、草土のにおい、空の移り変わり、
そういったものを文字通り肌で感じ取っては、しっかりと味わうことができるのです。
だから、私にとっては休日のこういう野点コーヒーは
それらを味わうために必要な仲介人のようなもので、
言い換えれば、私は、そういうワンクッションあってこそ、
目の前の自然や風景をじっくり楽しむことができていると言えるのです。
何か変な感じもしますがね。
でも、そう考えると私にとっての野点コーヒーは、
ある意味額縁やフレームのようなもので、そこを通してみて初めて、
目に映る対象が鑑賞すべき作品になるのではないだろうか、
と、そう思ったりもするのですよ。
というのも、コーヒーを淹れる場所が、たとえ見どころのない街角であったとしても、
恐らく見どころなどどこにもないと思われる、そういう光景でも、
そんな場合でも、それなりに結構楽しく眺めることができているから。
だから、やはり私のとって野点コーヒーというのは、風景との仲介人。
だからこそ、必要不可欠な相方のストーブは、
時には身軽でシンプルなものほどよく合うのかなとか思ったりします。
むろん、主張の強い凝ったストーブもいいのですが、
そうなると、それが主役になりすぎるから、なかなか目が風景に向かないのです。
(=^^=)ゞ
*動画*