アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

11 力

2024-05-21 04:29:03 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-12-4

◎悟りへの22段のパス⇒タロット・カード-4

◎聖音オーム

 

11番から20番が死の側の10枚。これもホドロフスキー流で、2枚ずつ眺めていく。すなわち、11と20は独立だが、12-13、14-15、16-17、18-19がペア。

 

11 力

 これは、聖音オーム。潜在意識の世界、死の世界の現在、過去、未来のすべてを貫くもの。それが、神に至る流れであり、奔流であり、力である。神は、“20世界”たるアートマン。

 

ヨーガ・スートラでは、『至高の存在の表現が、聖音オームである』とし、『オームを繰り返し、その意味への念想がなされなければならない』、更に『この実践により内なる自己を知り、障害はなくなる』とする。これが基本。

オームの意味を念想するとあるが、特定の意味が最初に与えられるわけではないので、自分がオームそのものにならない限りはその意味は与えられることはないだろう。

 

マンドゥーキヤ・ウパニシャッドでは、

『オームは現在、過去、未来のすべてである。三世を超えるものすらすべてオームである』(現代人のためのヨーガ・スートラ/グレゴール・メーレ/産調出版P57から引用)とそのものズバリで解説する。

 

これに対し、OSHOバグワンのヴィギャンバイラブ・タントラでは、

『-39-

ある音をゆっくり唱える「オーム」と。

音が遍音(あまねくひろがる)状態になるとき、あなたもそうなる。』

(沈黙の音/OSHOバグワン/市民出版社P94から引用)

 

絵柄は、口を開けたライオンを手で押さえた女神であって、北欧神話のトールのような力自慢のそれではなく、いかにも軽々とやってのけている。だが、ライオンである自己実現、自己拡張の願望を口を閉じるのではなく開けたままで抑えるのが強引さを感じさせない。まだ自己を拡張させる段階でもあるのだ。

 

インドの聖者ユクテスワによれば、人は真の信仰の意味を理解するようになって、幸運であれば、“自分を霊的に導いてくれる聖師(救い主)となってくれる神のような友”に出会えるという。

 

この友に忠実に従って修行をしていくと、スシュムナドワーラ(スシュムナー)に心を集中することができるようになる。そして自分の内なる光輝く身体が見えてきて、聖音オームを聞くようになるという。

(1. “神のような友”とは、聖者が友として現れるということ。

2.内なる光輝く身体のことを神の先触れたるバプテスマのヨハネであるとする。)

 

ユクテスワは、聖音オームは川の流れであり、これに浸って沐浴(洗礼)を行い、いくつかの世界をとおって神のもとに帰るとする。

 

オームは神に至る川の流れだったのだ。よってこの死の世界で神に至るまでの流れの力が最初に置かれている。

 

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錬金術の世界樹

2024-05-21 04:23:41 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-11-6

◎世界樹-4

◎その根は高く、枝は下に広がる

 

世界樹は、哲学の樹(アルボル・フィロソフィカ)とも呼ばれる。錬金術文書では、転倒した樹(アルボル・インウェルサ)とされ、上から下に成長し、樹冠が下に、根が上にある。この転倒した世界樹は、古代秘教的世界観から来るもので、神である根から世界が発出しているという見方に、人間からの見え方を加えたものである。

 

『ある錬金術の文書では、「鉱物の根は空に、枝は大地の下にあり、これを引き抜くと、恐ろしい音がして、大いなる恐怖が続く」と記されている。『世界の栄光』では、哲学者たちの言葉として「その鉱物の根は空にあり、梢は大地の下にあり」と述べられている。

(中略)

 

転倒した世界樹の数多くの例の中で最も有名なものは、『ウパニシャッド(奥義書)』にあるものだろう。樹の宗教的意味がアルボル・フィロソフィカのそれと似ている。

 

この宇宙は永遠に存在する樹であり、その根は高く、枝は下に広がる。

樹の純粋な根が梵であり、その中に三界(欲界と色界と無色界)が存在し、これを超越する者はいない。』

(ヨハンネス・ファブリキウス/錬金術の世界/青土社p229から引用)

 

悟っていない人間には、世界樹は根が下に枝が上に広がって見える。世界樹の根を目撃した瞬間に、世界樹の見え方はひっくり返る。世界樹の根は神であり、仏であり、タオであり、ニルヴァーナである。

 

この逆転した世界観こそ覚者の証拠である。悟った人が周辺に理解されないのはここに最大のキーポイントがある。

 

また霊が見えようが、ハイアーセルフと話ができようが、世界が逆さまに見えない人は本物ではない。タロット・カードの木から吊るされた男こそ、覚者の姿である。

 

更に、逆転のニュアンスはないが、ユダヤ教に世界樹のビジョンがある。それは、旧約聖書の創世記の生命の木である。生命の木はエデンの園の中央にある。エデンの園の東に、天使ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、生命の木の道を守らせられた。これは、人が生命の木に至る道を保証し、その道を保護していることになるだろう。聖書のこの部分で、人には永遠に生きる道がある可能性をも示唆している。天使ケルビムは猿田彦みたいなところか。さまよえる魂を善悪立て分けて、行くべき相応の道を指し示す。

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バガヴァッド・ギータのブラフマンとアートマン

2024-05-21 03:35:04 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-11-12

◎アートマン-12

◎第六身体アートマンの様々なアスペクト-4

◎肉体を離れようとする最後の瞬間に考えることは、すべてがいつかは実現する

 

ウパニシャッドを読むと、ブラフマンとアートマンの定義は揺れている。

だが、バガヴァッド・ギータでは、大聖クリシュナの定義は単純明快。

※ブラーマンはブラフマンのこと。

 

『スリー・クリシュナー

 

ブラーマンは不滅であり、万物を超越している。ブラーマンが個人に宿ると考えるとき、これをアートマンと呼ぶ。ブラーマンの創造力は万物の発生の源泉である。

相対界の性質は変化してやまない。個性は自我の意識である。私だけがこの肉体の内にあって行動をつかさどる神である。

人が死んで肉体を離れる時、私に意識をおいていなければならない。そうすれば私に合一する。

これを疑ってはいけない。肉体を離れようとする最後の瞬間に考えることは、すべてがいつかは実現する。このことは一生を通じて最も長く人の心にあったものであるから。

だからいつも私を念じて汝のなすべきことをおこなえ。汝の心と知性がいつも私の上にあれば、汝は疑いなく私のもとにくる。

いつも瞑想することを心掛けて心を統一せよ。そうすれば汝は神、光を与える者、最高なるも のに達する。』

(バガヴァッド・ギータ/熊澤教眞訳/ヴェーダーンタ文庫P102から引用)

 

これは、ブラフマンの顕現であるクリシュナと合一すべき観想法の勧め。それをクリシュナという人格神への信仰に限定されると考えると多分誤解するが、それでも神に至る。

バガヴァッド・ギータの前半を読むと、アートマンの説明もブラフマンの説明も似たような感じだが、「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」P100-101のアートマンが上昇し、「ブラフマンとアートマンの合一」のイラストを見て、そのようなものかと理解できるのではないか。

今さらながらそれを知的に了解することには何の意味もないが、いつも冥想して心を統一し、神に至ることが肝心である。

 

神に至る道は、大別すると三種。神に憑依してもらう、神を見る、神人合一。

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