◎ジェイド・タブレット-外典-12-7
◎悟りへの22段のパス⇒タロット・カード-7
◎至高体験は自発的にやってくる
神人合一後は、聖胎長養。神仏の体験とはいえない体験は、それまでの日常感覚と行住坐臥に一致して反映させるには、あまりにもショックが大きい。そこで節制となる。
ただし、神人合一でなく、見仏見神見性などの一瞥体験をしたとしても悪人になる可能性があることは、至道無難が指摘しているところ。
聖胎長養は悟後の修行と言われるが、悟後の修行の必要性については、ケン・ウィルバーが次のように説明している。
『至高体験がたいてい短時間しか持続しないのに対して--数分から数時間--高原体験はより不変的かつ持続的であり、永続する適応に隣接している。
至高体験はたいてい自発的にやってくるので、それを持続させ、至高から高原に--短時間の変性状態から持続する特性に--変化させるためには長期にわたる実践が必要となる。
ほとんど誰にでも、どんな時でも、どんな年齢でも短時間の至高体験を得ることができるのに対して、私は高原体験の真正の事例において数年にわたる霊的実践を継続していない事例を知らない。』
(ワン・テイスト(1997年11月)/ケン・ウィルバー/コスモスライブラリーから引用)
ソーマ・ヨーガのドン・ファン・マトゥスもそれと思われることを言っている。
ドン・ファン・マトゥスは、思考停止において人間は特殊な意識状態で活動できるのだが、これを内的沈黙と呼んだ。これを世界を止めるとも呼ぶ。内的沈黙は蓄積されるのだが、そのような内的沈黙の活動がスタートするには、修行者は破壊点を必要とする。破壊点の後、神と共に生きる形に世界は再構成される印象がある。この「内的沈黙は蓄積される」とは、いかにも聖胎長養を思わせる言葉である。
絵柄は、濃厚な大悟覚醒というワインを水で薄めている図。治癒、和解、調整、節制のイメージと言えばわかったような気になるが、その時期の人物を外から見れば、何だかぶらぶらしているようにしか見えない。
たとえば京都大徳寺の宗峰妙超は、鍵束をガチャリと置く音で大悟した後、7年間鴨川の乞食の群れに身を投じ、乞食生活をやった。この悟後の乞食生活が、聖胎長養。
夢窓国師は、常州の臼庭(北茨城市)の小庵で、五月の末、庭前の木の下で一日坐禅をして、夜も更けたので、疲れて庵に上がって来た。
そこで壁のないところを壁と思って、ふと身をもたれかけたら倒れた。そこで大悟して、思わず失笑した。
臼庭には10月までいて、鎌倉に行き仏国国師に悟ったことを認められた。この5か月が聖胎長養だろう。
1652年3月、盤珪禅師は、長崎の道者超元禅師に参じていたが、坐禅中に豁然(かつねん)と大悟した。その後約一年ほどは、聖胎長養をしている。
節制、すなわち聖胎長養は、見神後どのようにその体験を定着化させるかという努力なのだと思う。