◎ジェイド・タブレット-外典-12-3
◎悟りへの22段のパス⇒タロット・カード-3
さらにホドロフスキーは、大アルカナ前半10枚では、その動作が上方に向いている一方、10枚はその動作が下方に向いていることに気がついている。
具体的には、前半10枚では、「大道芸人」(I)と「女帝」(III)は棒を、「皇帝」(IIII)、「教皇」(V)、「戦車」(VII)の王子は笏を持ち上げている、など。
また後半10枚では、「力」(XI)の女性は股間に頭を押しつける動物の口を抑えつけている。「吊られた男」(XII)は下方に頭を向けたままで吊るされている。「節制」(XIIII)の天使は液体あるいは流体を上の壺から下の壷へと 注いでいる、など。
この並びについて、ホドロフスキーは2枚ずつ眺めていくという炯眼を披露している。1と10は独立だが、2-3、4-5、6-7、8-9がペア。
まずは、前半10枚について。前半は生の世界だから、霊があるとか、人は死んだら生まれ変わるとか、人間には微細身(アストラル体、メンタル体など)があるなどとは言わない。前半10枚の冥想手法としては、黙照枯坐の只管打坐、仕事を精密にやり続ける事上磨錬、武道、芸道など。
1 魔術師(大道芸人)
只管打坐では、修証一如と申して、修行も悟りも同じだ、つまり「悟っていない人も悟った人も同じだ」と主張する。これは、悟った人がそれを言うのは間違いないが、悟っていない人がそれを言うのは間違いである。
これは、この魔術師が凡人であると同時に完全人(イブを分離する以前のアダム、アダムカドモン)、原人でもあることを意味するのと同じ意味である。
絵柄では、スシュムナー、イダー、ピンガラーの3本のナディ(気道)を示す三本足のテーブルの上にクンダリーニのエネルギー・コードたる蛇のしっぽが載っている。
最初に登場した人物は最後にはクンダリーニを極めることを示しているのだ。
2 女教皇(女司祭長)
キリスト教は自称三位一体だが、実質二位一体とも言われる。これは、神が父であるが故に母なる神がないことを示す。つまりこの女教皇は失われた太母、聖母マリアなのだ。精神性における母性の表象。
3 女帝
これは、女教皇が聖のトップであるのに対し世俗のトップ。誕生、出産、多産という肉体のレベルでの母性の表象
4 皇帝
肉体、物質レベルでの世俗での王。南面する人。人は肉体なしでは悟れないということはある。
5 教皇(法王、司祭長)
皇帝に対し、精神面での王。北面する人。
皇帝と教皇の対面は、達磨の6世紀梁の武帝との対面や、大燈国師の花園上皇との対面のシーンのイメージ。
6 恋人達(恋愛、恋人)
柔弱なる力、受容性、精神面での他者に親しむ力。燃え上がる生命力、エロス、魂の伴侶との引き合う力。人間の側の都合。だが大慈悲。
古事記で言えば、日に千五百人産み出すイザナギ神のポジティブパワー。
7 戦車(征服者)
強硬な、無慈悲なる力。物質面での他者に影響を与える力。圧倒的破壊力。古事記で言えば、日に千人取り殺すイザナミ神のネガティブパワー。
歴史学者アーノルド・トインビーは、インドの巨大山車ジャガーノートで轢き殺されると天国に行けるから、どんどん山車の前に人は身を投げるという具合に書いてあった。この戦車とはまさにジャガーノート。
ただし数年前にその祭りのNHK放送を2時間くらい目を皿のようにして見たが、巨大山車ジャガーノートの前面側面に見張りやら警備員が立っていて、結局誰も飛び込まなかった。
8正義
正義、公正。顕教。善と悪とを立て分ける。善悪をきちんと区分するためには、日々善の側に立ち、積善陰徳を積み重ねて行かねばならない。それは悟った者の生きる姿である諸悪莫作衆善奉行(悪いことをしない、善いことをする)でもある。
※カモワンでは、VIIIは「力」でなく「正義」になっている。
9 隠者
神秘的パワーにより人間を隠れてサポートする。密教。冥想。
顕教の大衆宗教であるカトリック、禅などで構築された社会には、必ず年に1回か2回、オルギア的乱痴気騒ぎや、嘘をつきまくってよい日など、日常の秩序からのガス抜きの日が設けられているものだ。
宗教の戒律を守り、ともすれば苦行のように見える抑圧の継続する日常には、その社会のどこかに神秘家スピリチュアリストがいて、抜け穴を見せてくれるものだ。
10 運命の輪(運命、運命の車)
人は勤倹、敬虔に暮らしていけば、あるいはそうでない生き方をしてもカルマは消化され、次の人生に進んでいくか、大悟覚醒して輪廻転生を終了するかする。輪廻転生してロバに生まれ変わったり、ペットに生まれ変わったりという人もいるらしいし、動物から人に生まれ変わる人もいるらしい。またマンツーマン輪廻かどうかという議論もあるし、転生しないというカトリックの見方もある。
生の側の10枚の最後は、輪廻転生そのものだが、悟りの必要条件は、『人間を卒業する』、『あらゆる実感を経る』ことなので、ここにこれが置かれている。