アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

15 悪魔

2024-05-29 06:54:46 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-12-8

◎悟りへの22段のパス⇒タロット・カード-8

◎大悟覚醒の直前に登場

 

冥想修行で、意識が深まる、潜在意識が露出してくる、自分がオープンになってくる・・・・言い方は異なるが皆同じことを言っている。その時に、人は暗示や指示に無防備になっている。オープン・マインドは最終ステップでの必要条件だが、対応次第で、人は神にも悪魔にもなる。

 

悪魔はいつ登場するのかと言えば、大悟覚醒の直前。イエスですら荒野の40日修行で、ファイナル・ステージ直前に「地上の国々の権威と栄華を与えよう」と悪魔の誘惑を受け、釈迦も「もうこの世を去ってもいいのですよ」とマーラ(悪魔)の誘惑を何回も受けた。不退転となる直前、九分九厘の時は、フィフティーフィフティなので、その時は神にもオープンであり、悪魔にもオープン。すべてを捧げようとする最後のステージではなぜか悪魔が登場する。

 

また稲生物怪録は、江戸時代、広島県三次市を舞台に、様々な妖怪が次々と登場し、16歳の稲生平太郎が、妖怪軍団をついに打ち破るというもの。沢山の悪霊が登場し、最後に魔王が登場するが、その際稲生平太郎は、冠装束をした人の半身(昔の一万円札の聖徳太子みたいな)が稲生平太郎の背後に見え、それは彼を守る氏神だろうと認識した。大悟の直前に悪魔が出現するのである。

 

最近非二元が流行しているらしいが、それを説く人は、二元が一元になる直前に悪魔が出現することを説明しているのだろうか。

 

このように既に「12吊るされた男」において、見神、見仏、見性を経た人物は、不退転のニルヴァーナに入る直前に悪魔に出会うのである。

 

 カモワン・タロットの悪魔では、図柄は悪魔ではなく乳房に男性シンボルを有する両性具有。見神、見仏、見性、見道した後に両性具有のステップがあると示す。そのことは、OSHOバグワンが端的に説明している。

 

時間もなく、場所もなく、すべてが神であるどこにもない場所、それが男女の別を超え、えり好みをしないという第四ステップを超えると起きてくる。つまり、自分がどこにいるのか、自分が誰であるのか言えなくなるのが第四ステップ。彼は、神はどこにでも存在していて、その上で自分がどこにいるのか、自分が誰であるのか言えなくなるという、想像しづらい“現実”を突き付ける。ところがこれぞ『真のわが家(無何有郷は是れ真宅なり)』

 

『第四の現象はこれだ――神の臨在に気づきはじめると、あなたの二元性、あなたの根本的な極性は消えはじめる。そうなったら、あなたは男でもないし女でもない、〈陽〉でもないし〈陰〉でもない。すると突然、あなたの男が女を食べ、あなたの女が男を食べる。この地点で、ヒンドゥー教のアルダーナリシュバル(両性具有) という概念が重要な意味をもってくる。そうなったら、あなたは両方であると同時にいずれでもない。あなたは肯定と否定の二元性を超越している。』

(黄金の華の秘密/和尚/めるくまーるP431から引用)』

※第四の現象=四つ目のステップ:太乙金華宗旨の逍遥訣のこと。

 

最後にダンテス・ダイジの初期の説法から

『「サタンていうのは、天国を大切に守ろうとしている人にだけ現れる。たとえば、イエス・キリストがさ、荒野で自分を本当に高めようとしたときにさ、高めるっていう方向があるときにサタンは現れるわけ。それから釈迦が成道しようとしてさ、成道するっていうのは、天国的な方向に向かおうとする努力なんだ。そしてそれは絶対に必要なことなんだ、人間にとって。より素敵なものに向かうっていうのは。

 

そしてその方向に向かってるとき、突然サタンが現れるわけ。それも、釈迦のサタンていうのは、いかにも釈迦っていう人をよく表していてさ、奴の自意識の豊かさっていうのをよく表現してるよ。まだ素朴だよ、キリストのサタンの方が。汝を帝王にする、とか。石をパンに変えてみよ、とか。崖から落ちて飛び降りてみよ、とかさ。その代りにこの世の一切の権力を与えようとかさ、やるじゃない。

 

で、釈迦の場合に現れたものって言ったら、何のことはない、古女房が現れてきてさ(笑い)、ヤスダラっていうのが女房で、子供がラーフラか。ラーフラを抱きながら、その女房が現れるわけよ。』

(ダンテス・ダイジ1978年の東京是政での説法から)

 

【悪魔が怖い人に。】

ダンテス・ダイジの原典『救世主入門』の一節。

「君が天使のようだろうと

悪魔やそれ以外の何者のようだろうと

君自身は

天国にも地獄にも

決して長くは住まない

場所も時間もなく

君は

今・ここ・いる」

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空海の声字実相義

2024-05-29 06:45:45 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-11-10

◎世界樹-8

◎五大にみな響あり

 

ユダヤ教のセフィロトの10球は、結局五大が基本であった。五大は有の世界のことであり、無を包含していないので、7チャクラあるいは、7ボディが無を包含しているのに比べると、世界樹と同様に十全性を欠くように思う。

 

まずは、空海の声字実相義。

 

五大にみな響あり (五大皆有響)

十界に言語を具す (十界具言語)

六塵ことごとく文字なり (六塵悉文字)

法身はこれ実相なり (法身是実相)

 

五大とは、地水火風空のことで、それぞれにバイブレーションがある。

十界とは、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界であり、死の世界も含めたあらゆるボディの世界。それぞれの世界にリズムとメロディがある。

※仏界はニルヴァーナ。

 

六塵とは、色・声・香・味・触・法のことで、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触るなどの感覚刺激の対象や、思考の対象のこと。それぞれにシンボルとしての文字がある。

こうした現象の現れも実相である窮極の真理である。

 

このように空海も、現象が五大から展開すると見ている。それが十界というそれぞれの宇宙という場で、感覚や思考の対象となる現象を形成、変動させているのだと。仏界にも響きがあるのだろうかという疑問はあるが、五大では全体とし有の世界を説明しているので、セフィロトと同次元のことを語っている。

 

さて出口王仁三郎は、空海は、宇宙の根源はア字から出てきたという阿字本義を唱えたが、実はス字本義が正しいと主張した。

どうしてそういうことが起きるのだろうか。古事記の万物の根源の葦牙(あしかび)は、アだったり、スだったりするということなのだろうか。

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石ころの心

2024-05-29 03:25:07 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-12-5

◎ニルヴァーナ-5

◎ニルヴァーナとその実感-5

◎人間の側に立っていないこと

 

第六身体アートマンとは、過去・現在・未来が一体であり、あらゆるものが一つながりにつながっている、時間空間物質が混然一体となっているもの。そうした創造滅亡ですらもない心を、ダンテス・ダイジは石ころの心と表現した。

 

『「奥深い心」

 

すでに人間はいない

あらゆるものを構え

その中でとりとめもない

人間の喜びと人間の悲しみとを持つ

そのものはすでにいない

 

人間の喜びと悲しみとから生れる

あのしみじみとした心の果てには

すでに人間はいない

 

人間にとってあるというすべてのものは

ことごとく消え果て

ただその奥深い心だけが

何の束縛もなく現前している

 

それは人間の心ではない

人間の喜びも悲しみも

その心のどこにもないのだから

人の子の悲惨な死も

甘美な恋慕も

その心には見えない

 

また その心は

石ころと人間とに区別がつかない

めくらで不人情な心だ

 

だが その非人間的な心の絶対から人間の喜びと悲しみとを

しみじみと眺めあたたかく包む

何ものかが

限りなくあふれ出す』

(ダンテス・ダイジの詩集『絶対無の戯れ』/森北出版から引用)

 

そこには既に人間はいないし、ややもすれば人間の側の都合なんか考えてはくれない。

本当にこの石ころの心がニルヴァーナかどうかは、実体験という、体験とは言えない体験をせねばわからない。

石ころの心が流出源であるという見方は、

『ニルヴァーナとは、不二一元でさえもない。

神とは、ニルヴァーナの中なる

マーヤーの流出源にすぎない。 』

(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジP92から引用)

という一節にも見られ、古事記では葦牙(あしかび)なる世界の始まりを幻視するが、ユダヤ教ゾーハルでも似たようなの(一条の黒ずんだ焔)を見ている。古事記では、最初水に浮いた脂のようなものが漂い、火たる葦牙(あしかび)が出現する。ついで、海水をかき混ぜて、しずくを垂らして、大地を造った。

 

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