◎ジェイド・タブレット-10-37
◎垂直上昇への仕掛け-37
◎そこからの帰還-1
◎君は、初めて、真に生きる
ニルヴァーナからの生還の仔細について語った人はほとんどいない。ニルヴァーナからの生還の確率は低いが、生還したと思われる人には、次のような人がいる。
釈迦、達磨、役行者、空海、荘子、呂洞賓、覚鑁、パドマサンバヴァ、一休、出口王仁三郎、臨済、普化、道元、至道無難、OSHOバグワン、ダンテス・ダイジ等々。
『一度(ひとたび)は霊肉脱離の境越えて 夜なき国に住む人の身よ。』
(出口王仁三郎)
『本当に肉体から離脱したことがあるなら、君は、初めて、真に生きる。』
(ダンテス・ダイジ))
『大道の極意を
ことごとく 死人となりて なりはてて おもひのままに するわざぞよき』
(江戸時代の禅僧至道無難)
『神々のすまいする山に登る人間はいない。神々の顔を見た者は必ず死ぬ』
(ギルガメシュ叙事詩第5章)
大死一番して神に出会うということ。似たような表現が聖書にある。生還のことは気にしていない風である。
主がモーセに語る。
『しかし、あなたはわたしの顔を見ることはできない。わたしを見て、なお生きている人はないからである。』
(旧約聖書出エジプト記33-20)
『生を出て死に入るとは無より有にゆき、有より無にゆき、そして衰賤す。この故に清静は徳の至りにして、柔弱は道の要なり』(淮南子の原道訓)
さらに
『万物のすべては一孔に入り、百事の根は皆一門より出る』
(淮南子の原道訓)
これは、体験とは言えない体験を経て生還した者しか言えない言葉。一孔は、無上の垂直道、根とはサハスラーラ・チャクラか。
禅の公案集の碧巌録第四十一則【投子投明】から、
『禅僧趙州が知合いの禅僧投子に質問した。
「大死一番した人が、生き返った時はどうですか」
投子「夜行は許されぬが、明け方には到着しなければならない」』
不許夜行とは、唐代の夜間外出禁止令にかける。夜行とは死んだままであり、大死において大歓喜、大慈悲の真っ只中にあり、筆舌に尽くせぬ状況に放り込まれて、普通の人はそのまま9割は死んでしまうそうだ。これが夜行。
意識を清明に持ってそこから帰還する。これが明け方に到着する。十牛図でいえば、第八図から第九図、第十図と進む。帰還への意志が起こるのは、その人の持つ人間愛からなのだろう。生の側から極めるとはそういうこと。