【【ニルヴァーナ】【ザ・ジャンプ・アウト-11】neo】
スピリチュアルの暗号解読(海王星の発見から)
【【エーテル体】【ザ・ジャンプ・アウト-06】neo】
オルガスムの法則(エーテル体レベルでの現象 )
グルジェフのエーテル体(遠隔治療の原理)
エーテル体の色(肉体の回りの青みがかった光)
平田篤胤の養父篤穏の養生法(エーテル体のイメトレ)
OSHOのヴィパッサナー-1(想念と行動の意識化)
OSHOのヴィパッサナー-2(出入する腹への気づき )
OSHOのヴィパッサナー-3(入息出息を鼻の先で見守る)
OSHOのヴィパッサナー-4(取扱注意が必要な呼吸覚醒)
エーテル体の形状と位置づけ(エーテル体の形状と位置づけ)
生気に乗った生命(エーテル体の形状と位置づけ(続))
エーテル体の性質(睡眠時にエーテル体は肉体から離脱)
メスマーの27の法則-1(人間と全宇宙は常にシンクロしている)
メスマーの27の法則-2(気の力を自在に操れる人もいる)
メスマーの27の法則-3(エーテルとアストラルの区別)
第二身体は、濃縮した煙(神霊原子)
不完全なる霊素(陰陽・火水からどのように半物質、物質へと変わっていくか)
◎古事記の天国と地獄の結婚-3
(2019-09-14)
ギリシア神話では頻出の、男神と人間の娘の結婚。古事記では、三輪山の大物主神が、美人の勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)と交媾し、神の子富登多々良伊須々岐比売命(ホトタタライススギヒメノミコト)が生まれた。
これについて出口王仁三郎が言霊解を出している。まずトイレで御用たし中の美女を下から大物主神が赤い矢に変身して襲う段。
乙女(美人)の最もデリケートな部分を神に突かれたという衝撃により、乙女は至誠に目覚めそれまでの退嬰的消極的な姿勢を改め、積極的に四方に奔走し、敬神勤皇報国のために大々的活動を開始されたこととみている。
要するに大悟覚醒し、本来の自己、大神、アートマンに出会うというショックを受けて、人格も行動も至誠を基にするという形に全く変わってしまったという意味。
ここで注目すべきは下から突かれたという点。個室にて最もリラックスし、神に対してオープンとなった時に下から突かれたのである。サハスラーラは上だろうに。
この上下の見方は、神の側から見れば、世界樹モデルで見るが如く、世界樹の根が全体であり、枝葉が個。ところが人間で言えば、頭の側が根となる。これは人間にとっては逆転である。タロットカードの吊るされた男の姿。
正神が下から突くことはあり得ない。
古事記、霊界物語では、類似の上下逆転のモチーフがある。神界の大立者野立彦命が富士山火口に飛び込むシーンである。これは上から下への落下。現代なら単純にクンダリーニが上方に突き抜けてメンタル体で肉身を離脱し、アートマンに至り云々と解説するところを、古神道ではことさらに逆の表現をとる。
野立彦がダンテスの別称であることも知られているが、その文字配列すらも逆転した並びではある。
どうも古神道は、このように上下逆転して表現するのが好みなのではないかと思う。
女性が悟るというのも珍しく、意味深長。
だが、赤い矢が美男子に変身したという男の大悟覚醒シーンも含まれてはいる。男女同時に悟る。
以下は、出口王仁三郎の解説。
『『其の美人の富登を突き給ひき』
ホトの言霊は霊地(ほと)であり、秀所(ほと)であり、地の高天原である。亦た局処(つぼと)である。神宮坪の内と謂ふ意義もあります。
突き給ひきと云ふ事は、肝腎要めの局所を突き止め、見極められたことであります。
ヲトメの言霊を解説すれば、
ヲは祭り守らしむる也、長也、治む也、教也、緒也、結びて一と成る也。
トは結び定むる也、皆治る也、十也、八咫に走る也。
メは内部に勢を含む也、本性を写し貽(のこ)す也、親也、発芽也、天の戸也、世を見る也。
以上の言霊は、天地経綸の活用ある女神の発顕にして、祭政教一致の大道場である。即ち皇祖皇宗の御遺訓を遵奉し、且つ顕彰する神示の、聖団のある地の高天原である。
ホトの言霊を更に解釈すれば、ホは上に顕る也、活霊也、照込む也、火(ほ)の水に宿る也、日の足也。
トは通り結び納る也、最も迅速疾走鋭敏也。
則ち、厳の御魂の瑞の御魂に依宿し、最も迅速に鋭敏に活用を照らす日の御子の、足なる十の聖処地の高天原なる事が伺はれるのであります。
『爾(かれ)其の美人(おとめ)驚きて、立走りいすすぎき』
をとめは三輪の大物主神に、局処を突き止められ、非常に恐懼措く処を知らず、直に立ちて大神の命を奉じ、四方に奔走して敬神勤皇報国の至誠の為に、大々的活動を開始されたといふ事であります。
『いすすぎき』と云ふ概略な意義は、勇み進み君国の為に至誠至忠の大活動を為す事であります。吾々皇道大本の信者も、君国の為めに、至誠以て天地を貫くの大々的活動を致さねば成らぬ時運に到達致したのであります。
『乃(かく)て其の矢を将来て、床の辺に置きしかば、忽ち麗はしき壮夫(おとこ)になりて、即ち其の美人に娶(めあ)ひて生みませる御子、名は富登多々良伊須々岐比売命』
そこで其の矢を将来て、床の辺に置きしと言ふ意味は、改造された三輪の大物主の化身を、最も尊き座に置き奉って、将来の大国家の経綸を、勢夜陀多良比売から一々詳細に申上げると、大物主神は、初めて神意を覚り給ふと同時に、今迄の御煩慮は忽然として消え失せ、勇壮活溌なる大丈夫に身魂が改造変化され、将来に望を抱かれ、楽天、進取、清潔、統一の大精神を確持し、美人(瑞霊)と見合はし聞合はし宣り合はして、立派な御子を生み玉うたのであります。
ミコの言霊を解すれば、
ミは玉に成る也、◎を明かに見る也、真也、満也、三也、形体具足成就也。
コは天津誠也、脳髄也、一切の真元と成る也、全く要る也。
即ち玉と成る也は、玉は天下統治の表象である。◎を明かに見る也は、皇国の大使命を日神月神の光に依りて悟る事である。真也は至真至美至善の神徳である。満也は光輝六合に満ち渡る事である。三也は主師親の三徳及び三種の神器である。形体具足成就也は、君民一致の神政完了する事である。
天津誠也とは、惟神の大道にして麻柱の究極である。脳髄也は、万有一切を司宰する主脳の意義である。一切の真元也とは、政治宗教教育哲学等一切の真相本元を究極し、且指導する事である。全く要る也は、全大宇宙を神の意志に依りて統御し要むる事である。
実に三輪の大物主神と大便所に入れる美人と肝胆相照し以て宇内無比のミコを生み給ふと曰ふ、実に結構なる皇宗の御遺訓であります。』
(出口王仁三郎全集第5巻 神武天皇御東征之段P19-22から引用)
◎古事記の天国と地獄の結婚-2
(2019-09-09)
『古事記』によれば、三輪山の大物主神は、今を時めく美人の勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)に一目ぼれした。大物主神は、すかさず丹塗矢に変身して、その美人がトイレで大便中に下水溝を流れ下って便器に至り、ぐさりと彼女のホトを突いた。
すると不意を突かれて彼女はあわてふためいたが、気を取り直し、その矢を持ち帰って床の辺に置いたところ、矢はイケメンの男になったので、二人はすぐ交わった。
この二人の間に生まれた子が、富登多々良伊須々岐比売命(ホトタタライススギヒメノミコト)であって、神の子と謂われた。
三輪の大物主神は、世界各国の帝王又は大統領たちを司宰する大帝王のシンボル。彼が、世の中の醜き低きところの極み(大便所ではあるが、万物の生れ出る根源でもある)まで探して恋い求め、混乱する世界の肝腎かなめの局所を突きとめ、見極めた。
出口王仁三郎によれば、ホトタタライススギヒメノミコトを言霊で解釈すれば、直霊の御霊の光り、太陽の如くに明かに照り渡り、雲の上に伊都能売(天国と地獄の結婚)と顕はれて、永遠無窮の天下は治まりて静かである五六七(みろく)の仁政を施いて、世界を統一するということ。
五六七の神の御代の現象は、実にホトタタライススギヒメノミコトとシンボライズされ、彼女こそ古神道の天国と地獄の結婚である。
天国と地獄の結婚の表現としては、天照大神と素戔嗚神の誓約がやや複雑なのに対し、こちらの方はやや単純にできている。
古神道、クンダリーニ・ヨーガ系、密教系では、聖性の材料のシンボルとして、時に大便、小便が用いられる。善言美辞が基本ではあるが、プロの世界では、そういうものだと心得て読みたい。先入観を壊す。
◎ジェイド・タブレット-11-6
◎アートマン-6
◎あらゆるものが始原の源に帰還
第六身体と第七身体との間にサマーディがあると唱えるのは、OSHOバグワン。該当箇所は以下。
『第六身体においては、鏡は存在しない。 いまや宇宙的なものだけがある。あなたは失われてしまった。あなたはもういない。夢見る人は存在しない。
だが夢見る人なしで、夢はなお存在しうる。そして夢見る人なしで夢が存在するとき、それは真正な現実のように見える。心は存在せず、考える人は存在しないため、なんであれ知られるものはすべて知られる。それはあなたの知識になる。
創造の神話がおとずれ、それは漂い過ぎてゆく。あなたは存在せず、ものごとはただ流れ過ぎてゆく。判断する者はなく、夢見る者はいない。
だが存在しない心が、いまだにある。滅せられた心がまだ存在する。個としてではなく宇宙的全体として――。あなたは存在しないが、ブラフマンが存在する。
それゆえに全世界はブラフマンの夢だと言われる。この世界全体が夢、マーヤーだ。誰か個人の夢ではなく、全一なるもの、全体の夢だ。 あなたはいないが、全一なるものが夢見ている。』
(秘教の心理学/和尚/瞑想社P140から引用)
いつしかコーザル体の上昇は、第六身体アートマンに切り換わり、それが第七身体ブラフマンたる中心太陽に突入せんとしている。このイメージがないと、この件りは何のことかわからないのではないか。(改めてダンテス・ダイジの偉大さに感服)
『全世界はブラフマンの夢』と語っているが、第六身体アートマンの夢ではなく、第七身体ブラフマンの夢と言った場合、誰が夢を見ているのかとういう問題になる。第六身体である世界全体は、第七身体ブラフマンの夢だとさ。
『いまや唯一の区別は、夢が実体的(ポジティブ)かどうかということだ。もし実体的ならそれは幻想、それは夢だ。 なぜなら、究極的な意味においては、ただ非実体性(ネガティブ)だけが存在するからだ。
あらゆるものが無形なるものの一部になるとき、あらゆるものが始原の源に帰還したとき、そのときには、あらゆるものがあり、そして同時にない。実体性が残された唯一の要因だ。それは超えられなければならない。』
(上掲書P140-141から引用)
「始原の源に帰還したとき、あらゆるものがあり、そして同時にない。」では、「あらゆるものがある」のが第六身体であり、「あらゆるものがない」のが、第七身体か。「あらゆるものがない」とは、空(色即是空)ではないのだろうか。