◎ジェイド・タブレット-11-1
◎アートマン-1
◎空、本来の自分、聖杯、月、鏡、不死、不壊、永遠
第六身体をアートマンと言っているのは、クンダリーニ・ヨーガ系。アートマンを真我と訳しているものもあるが、空、本来の自己、聖杯、月、鏡、不死、不壊、永遠などとも表現されている。また、これは個人の心理的状態でもなく、精神的ステータスでもなく、思想でもなく、哲学でもなく、世界のすべてのすべてであり、過去現在未来を含むあらゆる時間と空間を含むもの。
人間にとって、個別性があるのは、コーザル体までであり、第六身体とされるアートマンは既に人間の側のものではない。現象全体をまとめたすべて一つながりの一なるもの、その呼称が、アートマンである。だから身体という呼称そのものが、そぐわないのである。
またコーザル体の先に位置するのがアートマン、「有」である。
アートマンとは本来の自分であり、本来の自己であり、本尊であり、聖杯であり、月であり、月輪であり、鏡である。そして、不死であり、永遠であり、腐敗しない、不壊であり、滅想定である。
アートマンとは古代インド思想の呼称だが、アートマンからは、つまりアートマンとニルヴァーナは、呼び名こそ異なるが、あらゆる宗教の本質は等しく共通であることの証拠の一つとなる。つまりアートマンは、物質と精神、時間や空間を含めた現象の側の全体としての呼称であり、シンボルとしては女性や太母や大地や牛や猪などが当てられる。一方ニルヴァーナは現象全体を越えた言葉では言い表せないもののことである。
中心太陽、ブラフマン、なにもかもなし、ニルヴァーナ。その対極がアートマンである。
人間は、悟りを求めて苦闘するのだが、アートマンなしでは人間ドラマは起こらず。アートマンだけでも人間ドラマは始まらない。
そしてアートマンとニルヴァーナはペアという風でもない。その関係は、極めて微妙な位置づけであることを示唆する書き方で、文献には現れてくる。
このように各宗教に共通のものがあるという見方は、最近の発見などではなく、古代インドから知られていて、冥想に深浅高低を意識する宗教であれば、必ずアートマンに相当するものが登場してくるものである。これにより、万教同根とか、宗派なき冥想ということが当然のごとく主張されていく。
アートマンは個人あるいは人間に属する事柄ではないが、人間は、悟った後でも、なぜ金を稼いだり、洗濯したり、家事をしたりしなければならないのか。結局人間は、アートマンという、いわばこの世での欲望の原因を宿して生きているからであるということ。アートマンは欲望の塊りなどではないが、肉体とプラーナと想念を突き動かして生きている本体は、せんじ詰めればアートマンである。
そしてクンダリーニ上昇プロセスにおいて、中心太陽に突入するのは、なぜか個なる人間ではなくて、アートマンなのである。
アートマン以上は神・全体であり、コーザル体以下は人間なのだが、このアンバランスを調整するのが冥想である。禅の十牛図では、アートマンたる牛を見るのが見牛第三であり、これも悟りの一つ。
プラトンのイデア説では、イデアである永遠不壊の善・美・正の元型が存在するところがイデア界。このイデア界がアートマン(真我、本来の自己)だが、アートマンとは、現象のすべてのすべてを含み、時間(過去現在未来)、空間、物質のすべてがひとつながりになっている一気通貫。
そこでは、時間は今ここしかないが、現象というのは常に様々に変動しているにもかかわらず、永遠で変わることがないということは全く矛盾していて、我ら凡人の生活感覚では理解できないものだ。
これを解くカギが、ダンテス・ダイジの冥想道手帳にあった。
『[神界]
絶対それ自身、完全それ自身。
愛・智慧・力・自由それ自身。
宇宙意識・ニルヴァーナそれ自身。
神界以外に宇宙はない。現象界とか霊界とかは、神界の表現形式にすぎない。
あらゆる生命達が求めて止まぬそのものであるとともに、あらゆる生命達の本来の姿。
冥想が冥想を冥想していること。
もし冥想道に目的があるとすれば、神界とふれ合い・神界と一つになり、もともと神界であった自分に気づくことただそれのみだ。
そしてまた神界のここに
君という神と僕という神とが法楽するドラマが終わったところに
神のドラマが始まる。』
(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)
神界とはアートマンとニルヴァーナのことである。アートマンの展開したものが現象界とか霊界とかである。だから神界とは天国という意味ではない。
『ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジ』P101-102の挿絵は、アートマンがブラフマンに突入するシーン。
この挿絵では何か巨大宇宙卵みたいなすべてのすべてであるアートマン『有』が、わけのわからない中心太陽ブラフマンに突入するというように具象が具象に衝突する風ではない。
なぜなら突入直前シーンの説明は、『すべてのすべてが私自身であることに目覚める』(上掲書P102から引用)となっているからである。
おまけに突入直前シーンは、サビカルパ・サマディであるが、『神と自己との間に差別感がかすかに残っている状態』(上掲書P108から引用)であって、突入後は、ニルビカルパ・サマディーであり、それは『自己と神とが完全に同一であることに目覚めることである。』(上掲書P108から引用)とあるからである。
すなわち、目覚めること、気づくことがポイントになっている。
つまり、アートマンとは、『すべてのすべてが私自身である』で、ブラフマン(ニルヴァーナ)とは、『自己と神とが完全に同一であること』であるのだが、力点は、そのことそのものにあるのではなく、それに目覚めること、気づくことの方にある。だから大逆転にして、倒立なのだ。
ここは、七つの身体論では注意すべき点である。
そのことを前提にすれば、『神界のここに
君という神と僕という神とが法楽する』ことができる。
なんとなれば、この理不尽と汚辱と苦悩と困難に満ちた現象界とか霊界とかは、神界の表現形式にすぎないからである。神界以外に宇宙はないからである。
※OSHOバグワンは、アートマンを個の方に分類しているが、もっともなことである。だからといって、『すべてのすべてが私自身であることに目覚め』たアートマンを個に分類してよいのだろうか?