◎ジェイド・タブレット-12-1
◎ニルヴァーナ-1
◎ニルヴァーナとその実感-1
◎月もなく、太陽もなく、カイバリヤ
アートマンがブラフマンに突入すると、まずブラフマンにおいて、すべてのすべてが私であることに気づく。
これは、存在全体、有を知ること。
次に有から無すなわちシュンニャ(空)に移る。これをモクシャと呼んでいるようだ。
これでようやく、有と無、すなわち存在と非存在を両方クリアし完璧となる。
これでようやく、七つの次元が揃う。
※空という日本語は、第六身体を指す場合と第七身体を指す場合がある。
人間が悟りを持ってこの世を生きることについて考えていたところ、「なにもかもなし」という言葉がそこはかとなくひっかかっていた。一体、「なにもかもなし」とは、第六身体なのか、第七身体なのか。
そのせいか、ゆくりなくダンテス・ダイジがニルヴァーナと人生をどのように考えていたかがわかったように思った。
至道無難の道歌も一休の道歌も何もかもなしは印象的である。
本来もなき 古(いにしえ)の我なれば
死にゆく方も何もかもなし
一休
三世不可得(過去現在未来のことはわからない)
いろいろに あらはれ出ずる心かな 心のもとは 何もかもなし
至道無難
ドイツのゾイゼの、没我の説明。
『その一は、自我の完全な消滅で、影が消え跡形もなくなるように、事物そのものが消え失せ、もはやそこには何物もなくなるといった状態。』 (出典:ゾイゼの生涯/ゾイゼ/創文社P191-192)
さらに釈迦は、感興の言葉(ウダーナヴァルガ)で何もかもなしを敷衍する。
『二三
それの出離であって、思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり、つくるはたらきの静まった安楽である。
二四
そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空もなく、識別作用もなく、太陽も存在せず、月も存在しないところのその境地を、わたしはよく知っている。
二五
来ることも無く、行くことも無く、生ずることも無く、没することも無い。住してとどまることも無く、依拠することも無い。―――それが苦しみの終滅であると説かれる。
二六
水も無く、地も無く、火も風も侵入しないところ―――、そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。
二七
そこでは月も照らさず、太陽も輝かない。聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちからも、形なきものからも、一切の苦しみから全く解脱する。
二八
さとりの究極に達し、恐れること無く、疑いが無く、後悔のわずらいの無い人は生存の矢を断ち切った人である。これがかれの最後の身体である。
二九
これは最上の究極であり、
無上の静けさの境地である。
一切の相が滅びてなくなり、没することなき解脱の境地である。』
(ブッダの真理の言葉 感興の言葉/中村元訳/岩波文庫P243-244から引用)
温泉の源泉は、ぬるすぎたり、熱すぎたりするもの。そして湯量が下流のホテルに行きわたるには少なかったりするもの。
そうした中で釈迦は、まさに源泉である。それも何千年も尽きぬ源泉。
ここに『さとりの究極』『最上の究極』という言葉が躍り、例の最終解脱という発想はこの辺から来た表現なのかもしれない。
月もなく、太陽もなく、という言葉で創造と滅亡でもなく、霊界でもなく、二元を超えた世界であることを示し、あったものが存在せず、虚空もなく、形からも形なきものからも抜けた境地は、カイバリヤ(独存)。言葉では表現できない『なにもかもなし』。
釈迦はこれをニルヴァーナと呼んだ。