◎肉体意識から夢を見ないまで
古代インドでプラジャーパティが熟眠中でも夢を見ない意識状態を至高のものとして求めて以来、冥想修行者にとって無意識をすべて意識化することが、最終的目標である。アメリカの覚者ケン・ウィルバーですら、熟眠中でも夢を見ない意識状態到達には苦戦した。
無意識の意識化について、OSHOバグワンは、一歩踏み込んだことを言っている。薬物のように肉体レベルの化学作用が人を酔ったり無意識にしたりできるということは、一般に薬物の方が人間の意識より強力だということ。ところが、タントラの技法では、人を酔ったり無意識にしたりする薬物を摂取しても人は意識的なままでいることができるとする。
このような例としては、ラム・ダスの出会ったニーム・カロリ・ババ(マハラジ)が、普通の人が飲む6倍もの強烈な効き目のLSDを3錠飲ませても平気だった例や階段から落ちて大けがで痛みに苦しむ人が観想法で痛みを感じなくなった例などがある。
OSHOバグワンは、薬剤による効果や、怒りや性欲、嫉妬ですら肉体レベルで起こる、無意識が意識を押しのける作用だが、それが起きた時にそれに翻弄されないようにするには冥想すればよいという。こうした肉体レベルの作用が起きた時に、意識的であって観照者でいなさいと、彼は言う。(参照:秘教の心理学/OSHO/めるくまーるP268-270)
肉体死のプロセスも容易に無意識になっていくプロセスだが、そこで意識的になれば、神に出会うことができるとチベット死者の書では言っている。
ソクラテスは、毒杯を飲みながら自分の肉体が麻痺していく様を自分で実況中継した。
スーフィのホセイン・マンスール・ハッラージは、斬首台の上でしか語れぬ、神との秘密を明かした。
こうした例は、肉体意識が意識のすべてではないという側面が強いが、熟眠中でも夢を見ない意識状態とは、肉体意識のことでなく、微細身レベルのことで一歩進んでいる。
無意識には生の世界も死の世界もあり、冥想修行とは、無意識を意識化することだと一言で云うのは易いが、底知れぬ深みがある。