◎神である自分と人間である自分の両様の自分を生きる人生観
冥想修行者の人生観とは、覚者の人生観に近づくことである。思想、信教の自由の下では、人間の人生観など他人に教えてもらうものではないと思っているのだろうが、その自分の考えの9割以上が外からきたものであるからには、その人生観とは現代のあらゆる形でのマインド・コントロールの結果であって、いわば自分の人生観は、「自分の」ではなく、どこかの知らない他人の人生観の複合物であろう。
人間には、社会人・肉体人としての公生活とあらゆるとんでもない思いまで含む私生活がある。
だが、ジェイド・タブレットに示した通り、本来人は、神である自分と人間である自分の両様の自分を生きるべきものである。本来あるべき人生観とは、『時間も空間も現象もない神仏である私は、時間と空間と現象の中に、あらゆる物語を戯れている。それと同時に、人間である私は、私にしかできない生き方で生き切り、そして死んでゆく。
これが、神仏と人間を同時に生きる二重性。』。
この立場から出て来た会話が、達磨が梁の武帝に「私がしてきた仏教支援策はどんな功徳があるだろうか」と問われ、「無功徳」と言い放った事例や、花園天皇が「仏法不思議、王法と対坐す」というと、これに対し大徳寺の宗峰妙超が「王法不思議、仏法と対坐す」と言い返した例がある。
ところが、生活にも不安なく、地位も名誉も問題のない天皇陛下ですら、神事がまず先と教えてもらわねばならなかった。第84代順徳天皇の著された「禁秘御抄」の冒頭に、「凡(およ)そ禁中の作法まず神事、後に他事」とあるように天皇も神事がまず先だった。人々も食べられるなら、神事すなわち冥想がまず先。仲哀天皇は、冥想修行を怠けて、結果がよろしくなかったという例まで古事記に載っている。
西洋占星術のホロスコープは、上半球が公生活、下半球が私生活で、12室のカテゴリーは、人生上の出来事の区分をすべて網羅しているなどと感心していてはいけない。神として生きる自分の視点が全体の中に隠されているが、そのことがホロスコープには欠落しているのだ。神として生きる自分には、
宿命もカルマの改善もそこからの解脱も含め、あらゆる可能性がある。それには、チート技はないが、方法はある。
だが、その修行の仕方は、調子に乗って図に乗れば、パエトーンのようにあっという間に叩き落とされるのが常であり、すべてを棄てることが求められるシーンが必ずあるものである。
また見神者、菩薩の人生観には、見るべきものがある。