◎ジェイド・タブレット-05-35
◎青春期の水平の道-34
一休宗純の狂雲集にこんなのがある。
愛念愛思胸次を苦しむ、
詩文忘却して一字無し。
唯だ悟道あり道心無し、
今日猶お愁う生死に沈まんことを。
これは前半が愛欲に目がくらむ自分の現実を表現し、後半がニルヴァーナを経て生死を超えたはずだが、戒律を守る清純な生き方はしておらず、今日なお生死の区別ある迷いに沈む自分を愁うくらいの意味だろうか。
この世はドリームでもあり、リアルでもあり。『如』なる現実感覚でもって愛欲生活に沈潜すればこういう感慨になるのだろうか。
一方ダライ・ラマ6世(1683-1706年)の恋愛詩は、一休の狂雲集のそれとは違って、単純に甘い恋の出来事を断片的に描写するものが多いものの、狂雲集ばりの詩もある。
『たった一夜といえども、 一人で過ごしたことはない。
私の床にはいつもすばらしい美女たちがもたらされた。
だが一瞬たりとも道(空性が歓喜となって顕現する大楽の体験)を踏みはずしたことはない。
なぜならば私は”普遍的な心(ユニヴァーサル マインド:一切の命あるものを苦界の輪廻から救済するという普遍的な責任を受容した純粋な意識)”を決して見失ったことはないのだから』
(14人のダライ・ラマ/グレン・H・ムリン/春秋社(下)P5-6から引用)
ダライ・ラマ6世も一休同様に、ニルヴァーナ・道というものを持ちながら女犯をするという立場にあったことは同じ。
また一休の性愛遍歴を見れば、求道としてのカーマ・ヨーガではないように思う。理由はパートナーをどんどん変えているからである。
さらに、こうしてみるとカーマ・ヨーガは、確かに男性側の修行法なのだろうが、かたや女性においてはカーマ・ヨーガは修行ではないという位置づけに、男女の魂の完成プロセスの別を感じさせられる。ある生では男性として生き、次の生では女性として生き・・・などという事情もあり。