◎自動車ブーブー(老子狂言)
『自動車ブーブー
冥想が公案なのだ!?
公案が冥想なのだ!?
冥想が冥想なのだ!!
そして
公案が公案なのだ??
戯れには果てしがない』
(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)
以下【】内は上掲詩から引用。
アメジスト・タブレット・プロローグから公案に関する説明。公案は禅の冥想法の一つ。
『初心者にとって、
冥想とは、
永遠をかけた全面的努力である。
そして、
純粋冥想が開示されるのは、
時節が熟した、
ほんの一刹那の瞬間。
冥想とは、
全次元存在と絶対的非在との、
最終的結末であり、
それと同時に、その中間であり出発点である。
それゆえに、
人類の全努力は、
純粋冥想に打ち込むための
余暇を作ることにある。
快楽は苦痛であり、
安心は不安であり、
満足は不満足であり、
悟りは迷いである。
これでよいのだ。
それでよいのだ。
ただし、君は決して、これもそれも信じてはならない。
一般に臨済宗では、
身息心の調和を重視した坐禅を修行している。そして、公案によって人為的に大疑団を起こそうとする。
しかし、大疑団は、いかなる人為によっても作り出すことはできない。
公案が疑団を作り出すことはあり得ない。
大疑団が、おのずから公案として結晶化するのだ。人生と存在全体に対する内発的な根本的疑問――これが大疑団である。
人生と存在との根本的疑問なしで、公案禅を修行するのは、愚かさ以外の何ものでもない。
公案とは、あなたから自発的絶望として出てくるものであって、いかなる覚者も、あなたに公案を作り出して上げることはできない。
大疑団なしで公案禅をやるくらいなら、健康法としての丹田禅の方が、はるかにまともだ。 丹田禅とは、仙道などの錬丹法や丹田呼吸法を、より強烈にしたものである。』
(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジ/森北出版P103-105から引用)
人生と存在全体に対する内発的な根本的疑問が大疑団。その大疑団により、あなたから出て来る自発的絶望が公案。
そこで公案という冥想に取り組む中で、
【冥想とは、
全次元存在と絶対的非在との、
最終的結末であり、
それと同時に、その中間であり出発点である。 】
ことに気づく。