アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

冥想が公案なのだ!?

2025-02-18 06:59:13 | ダンテス・ダイジの風光

◎自動車ブーブー(老子狂言)

 

自動車ブーブー

 

冥想が公案なのだ!?

公案が冥想なのだ!?

 

冥想が冥想なのだ!!

そして

公案が公案なのだ??

 

戯れには果てしがない』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

以下【】内は上掲詩から引用。

 

アメジスト・タブレット・プロローグから公案に関する説明。公案は禅の冥想法の一つ。

『初心者にとって、

冥想とは、 

永遠をかけた全面的努力である。 

そして、 

純粋冥想が開示されるのは、 

時節が熟した、 

ほんの一刹那の瞬間。 

 

冥想とは、 

全次元存在と絶対的非在との、 

最終的結末であり、 

それと同時に、その中間であり出発点である。 

 

それゆえに、 

人類の全努力は、

純粋冥想に打ち込むための

余暇を作ることにある。

 

快楽は苦痛であり、

安心は不安であり、

満足は不満足であり、

悟りは迷いである。

これでよいのだ。

それでよいのだ。

ただし、君は決して、これもそれも信じてはならない。

 

一般に臨済宗では、

身息心の調和を重視した坐禅を修行している。そして、公案によって人為的に大疑団を起こそうとする。

 

しかし、大疑団は、いかなる人為によっても作り出すことはできない。

公案が疑団を作り出すことはあり得ない。

大疑団が、おのずから公案として結晶化するのだ。人生と存在全体に対する内発的な根本的疑問――これが大疑団である。

 

人生と存在との根本的疑問なしで、公案禅を修行するのは、愚かさ以外の何ものでもない。

公案とは、あなたから自発的絶望として出てくるものであって、いかなる覚者も、あなたに公案を作り出して上げることはできない。

大疑団なしで公案禅をやるくらいなら、健康法としての丹田禅の方が、はるかにまともだ。 丹田禅とは、仙道などの錬丹法や丹田呼吸法を、より強烈にしたものである。』

(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジ/森北出版P103-105から引用)

 

人生と存在全体に対する内発的な根本的疑問が大疑団。その大疑団により、あなたから出て来る自発的絶望が公案。

そこで公案という冥想に取り組む中で、

【冥想とは、 

全次元存在と絶対的非在との、 

最終的結末であり、 

それと同時に、その中間であり出発点である。 】

ことに気づく。

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