◎極楽も地獄も超えた二重の世界
甲斐の快岩古徹は、古月禅師に参じて悟った。その時、大休慧昉と同参であった。二人はおれたちほどの悟りに達したものはあるまいと意気軒昂であった。
大阪に着いた二人は、淀川を上り、久世郡淀の養源寺に投宿した。その時、宿舎の壁に、〈清浄行者涅槃に入らず、破戒の比丘地獄に堕せず〉の額が掛けてあるのを見たものの、さっぱり意味がつかめなかった。なんとこれは、白隠の作だという。
〈清浄行者涅槃に入らず、破戒の比丘地獄に堕せず〉
頌
閑蟻争い拽く蜻蜒の翼
新燕並び休む楊柳の枝。
蚕婦籃を携えて菜色多く
村童笋を偸んで疎籬を過ぐ。
(頌の大意:
蟻がとんぼの羽を争って、引っ張り合っている
新たにやって来たつばめが、柳の枝の上に並んで休んでいる
蚕を飼う婦人は、沢山の菜の入ったかごを携え、
村の子供はタケノコを盗んで、垣根の向こうを逃げて行く)
〈清浄行者涅槃に入らず、破戒の比丘地獄に堕せず〉では、
善を行い悪を行わない極楽的な清浄な行者でも、地獄をクリアできなければ、涅槃・ニルヴァーナに到達はできない。悪行三昧の破戒の比丘でも、世界全体宇宙全体である有の一部である『破戒の比丘』を演じている自分と仏である自分という二重の世界に生きていれば、それは地獄に落ちず悟りを生きていると言える。
あるいは、覚者の目から見れば、清浄な行者も破戒の比丘も差はないということ。
道元ならば、魚行って魚に似たり、鳥飛んで鳥の如し、である。
だからといって、悪業三昧、破戒無慙に生きるのは、間違っている。誤解なきよう。