◎最初は守護霊として後には魔術の根本動因として
ダイモン(daimon)は、ソクラテスの死生観を読むと出てくる守護霊のようなもの。ダイモンはローマ時代には、ゲニウス(genius、守護霊)と呼ばれていた。
一方デーモン(demon)とは、悟りの直前に登場する悪魔であって、イエスの時も釈迦の時も成道直前に登場している。
ダイモンとデーモンは、そもそも別物だが、自由な石屋さんなどで現実を操作する魔的なパワーの根源をダイモンと呼ぶようになったようだ。それは以下の文でわかる。
『ギリシア語のダイモンは、本来は神あるいは神的存在を意味する言葉であったが、やがて神(テオス)の意味領域が確立するとともに、一般には神より下位にあり、現象世界より上位にあって現象世界を動かす根源的な力、原動力を意味するようになる。
人間と神々の中間に位置づけられたダイモンは、ギリシア時代における密儀・魔術・医術・予言などの基本原理と理解されていた。ゲニウスは、このダイモンを継承するラテン語であり、近代ヨーロッパにおいて、万象に内在する神的な力を意味する言葉として復活するのである。
鷲の飛ぶ姿を見る時に、われわれは天才を見るのでも、守護精霊や詩魂を見るのでもない。われわれは、鷲の飛ぶ姿に顕現している神的な力を見るのである。』
(フリーメーソンと錬金術/吉村正和/人文書院P177から引用)
密教とは、現実を操作できる魔的、神秘的なパワーを人間のよかれと思う方向に用いるもの。カトリックでは、聖霊を非常に広い意味で用いているが、その影のような位置にあるものとして薔薇十字以降の人々はダイモンを見たのだろうと思う。
守護霊の位置づけについては、出口王仁三郎その役割について厳密な定義づけを行っている。『人の精霊には、別途2種の精霊が同伴しており、一体は、天国と交流している善玉精霊(正守護神)であり、もう一体は、地獄と交流している悪玉精霊(副守護神)である。』というのがそれ。
なお我々の天賦の霊のことを本守護神と呼び、
正守護神、副守護神と同じレベルで並べているのは意味のあることとして考えてみるべきだろう。
また正守護神の人間へのエスコートぶりは、ソクラテスのダイモンと同様であると思うが、チベット密教では、正守護神、ダイモンに言及がないのはなぜなのだろうか。