◎三歳の童子
(2019-10-27)
フロイトの弟子にして、ニーチェから求婚されたルー・アンドレアス・ザロメ。
彼女の回想録冒頭。『私たちの初めての体験は、特筆すべきことに、神の喪失なのである。』
(ルー・ザロメ回想録 自伝文庫/ルー・アンドレーアス・ザロメ/ミネルヴァ書房P1から引用)
今でははっきりとは思い出せないが、確かに3歳の頃は、神と一体であるみたいな、全一性のような、全く問題のない状態にあったようだ。
ところが5、6歳になって、何か得体の知れぬ喪失感を、常に全人的に感ずることになって、確かにあの充実感、全能感はあったのだが、どこをどう探してみても見つからないという虚脱を毎度おぼえた。
それをルー・アンドレーアス・ザロメは、神の喪失だと言ってのける。
子供は子供でも、5、6歳になってしまえば、神なき人間という点では大人と全く変わらない。
ダンテス・ダイジも『三歳の童子』の全能感、つまりエデンの園における神と一体であることをアプリオリに感じ、生きていることについてほのめかしているような部分がある。
霜を履んで堅氷至る。3歳を過ぎて万人一斉に神を喪失するが、それからの神への再アプローチは各人に任されている。神への喪失に直面するということは自分自身に出会うということであり、堅氷を見つめ打ち破って行くことに取り組むということである。
3歳以前の子供が、自分の前世はこれこれで私が誰それの生まれ変わりなどと語ることもあるが、それは神の喪失という決定的な事件に比べれば些細なものだと思う。
(出口王仁三郎の随筆玉鏡の再生に以下エピソードがある。
『王仁三郎の長男六合大(くにひろ)の葬儀に当り王仁は遺骸に向つて「大本は男の子は育たぬのであるから、今度は女の子に生れてお出で」と言った。
すると、満一年後尚江が生れ、彼女が三歳の時、背負って六合大を祭つてあるところにつれて行くと、突如背中から
「ここには私を祭ってあるのだ、私は六合大さんの生れ替りじゃ」と叫び出したので、王仁もゾツとした。』)