◎ジェイド・タブレット-06-37
◎青春期の垂直の道-37
◎願望実現と謙虚さ
第五身体とは、七つの身体の五番目でコーザル体のことである。OSHOの説明では、第四身体たるメンタル体の次に来るスピリチュアル体のこと。
これは自我の最後のステージであり、人間として最後のポジショニングとなる。
OSHOの説明だと、第五身体以下には中心がない。第五身体では中心があり得るが、通常は中心はない。そこで第五身体に中心を創り出す必要がある。そのことをグルジェフは結晶化と呼んだ。その中心は自我である。
第五身体に入ると自我の結晶化が起こる。自我の結晶化が起こって初めて無我が視野に入ってくる。無我はニルヴァーナであり、第七身体。
OSHOは、自我の結晶化した人の例としてヒトラーや、ムソリーニや、多くの富を享受した人や、一国の大統領になった人、そして釈迦やマハ-ヴィーラを挙げる。黄初平もそうした人の一人だろう。
OSHOの説明からすると、巨富や権力によっても、人は第五身体での自我の結晶化を実現することができる。しかしそれは第五身体単独のものであり、その場合、最後は身の破滅を招くことになる。
一方釈迦などの覚者が身の破滅を招かずに、その先のボディに進む理由について、OSHOは、肉体からメンタル体までのつまり第一身体から第四身体までのボディが協調していないと、その先には進めないとする。
その協調とは、何か。明快には書いていないが、その協調、バランスの証拠として、本心から来るところの謙虚さが見られることを、OSHOは暗に言いたいようである。その調整メソッドは冥想以外にはないだろう。
欲望・願望の実現という形で、人は自我の結晶化を進めるものだ。だから欲望実現・願望実現は否定されるべきではなく、王道であることは間違いないと思う。しかし、それも行き過ぎれば身の破滅となる。そのバランス、さじ加減が実に難しいものなのだと思う。悟りは難しいのだ。
ルネッサンスで近代的自我の構築という、第五身体での結晶化事業をこの近代西欧文明は始めたが、その結晶化は跛行的であり、決して美しくはなく、成功しているとはいえない。そして結晶化事業はその後も500年も継続され続けている。
今日も文明全体で、第五身体の結晶化を、人によりてんでんバラバラにトライアルしている。第五身体の自我の結晶化は文明の最終ステージであるが、その意義は、その先に飛び出すジャンプ台を構築しているようなものだ。悟りそのものではない。
OSHOは、自我の結晶化には気づいているだけでよく、しがみつけばその先のボディ(身体)へとジャンプできないとする。
(参照:秘教の心理学/OSHO P164-P168)
自我の結晶化は、見神(見性・見仏)の前段階なので、自我が結晶化して初めて棄てられることのできる自我ができるのであって、結晶化できる以前は、棄てようにも棄てる自我はないとOSHOバグワンは説明している。
ところがOSHOバグワンは、結晶化した事例として、ヒトラー、チムール、チンギス・ハーンなど権力欲で自我を結晶化させた人物をも挙げている。(秘教の心理学p172など)これらは悪玉だが、同様に結晶化した事例として、釈迦、クリシュナ、マハーヴィーラを挙げているのだが、真摯な求道者としては悪事の限りを尽くした権力者が自我の結晶化事例として挙がってきていることに当惑せざるを得ない。
これについては、デヴァとプレータという霊的存在の話が出されているが、それが参考になるように思う。