◎大谷翔平の不調が、シリーズの敗因にならなかったところが、見えない力があったところ
2024年MLBワールドシリーズ第5戦は、想定外の大逆転でヤンキース6-7ドジャースとドジャースが優勝をさらった。全体の印象は、ドジャース・ファンには失礼かもしれないが、2011年のワールドカップ(W杯)ドイツ大会で初優勝を飾った日本女子代表(なでしこジャパン)の決勝の日本対アメリカ戦を思わせるものがあった。
澤穂希の奇跡のボレーのようなものはなかったが、試合の流れ全体は、目に見えないある力を受けたものであったように思う。
「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」は、プロ野球の故野村克也監督の言葉。
ヤンキースは、クリーンナップのジャッジ、チザム 、スタントンがそれぞれ本塁打を打ち、4回終了時点で5-0の五点差で、ヤンキースの圧勝を誰もが予想していた。
ところが5回の表のドジャースの攻撃は、センターのジャッジの落球、ショート・ボルペの悪送球、一塁ゴロでの投手コールのベースカバー忘れと続き、守備の乱れによって幸運にも5点を稼いだ。
この時点で勝利の女神は、最後までドジャースに向くことを決めていたようだった。
ワールドシリーズ全体を通して印象的だったのは、第一戦のフリーマンの逆転サヨナラ満塁ホームラン。ベッツの申告敬遠を受けての打席のフリーマンは、このホームランを呼び起こした。球場から帰る多くのドジャース・ファンの、ウォーという腹の底から出る叫びを聞いた人は多かったと思う。シリーズ勝利への飢えを呼び起こし、道筋までつけたのだ。
それとヤンキース・スタントンの走塁。第三戦4回、スタントンは、レフト前ヒットで2塁からホームに走ったが、あまりの鈍足で、本塁タッチアウト。これは、ヤンキース全体を象徴しているシーンの一つだったように思う。
第二戦の盗塁で左肩亜脱臼の大谷翔平は、打率は低調だったが、単に打線にいるだけで威圧感があるということでなく、チーム全体の勝利に向かう姿勢、モチベーションを上げるという点で、存在が大きかったのではないか。また大谷の不調が、シリーズの敗因にならなかったところが、見えない力があったところだと思う。
結果から見て、大谷翔平は、持っている男であり、野球の申し子である。ただこういうパーフェクトな選手が出てきたということは、野球全体が終わりに向かうことを、歴史の教訓は教えてくれているのではあるまいか。
王貞治さんも、頭が良く人格者で選手としても立派でした。仕組まれたスターではなく、努力のスターだったと思います。大谷さんも努力家で優しい方のようですが、引っかかるのは報道です。
私は大谷さんの称賛のされ方が、もうじき変化を迎えるかも知れないアノ国のトップのそれと似ていると感じます。日本のドラマの主人公も、常人離れした完璧な切れ物が好まれています。
もう水瓶座の時代。他人を褒め称え持ち上げるより、自分は自分。自由に生きれば良いのでは。
他人がスターの時代は終わるのではないでしょうか。
スーパースターの登場は、その時代の頂点を極めたというサイン。スポーツが道(求道)になれば、永続化しますが、エンタメのままでは、同時代の観衆の変化とともに廃れていくものだと思います。
面白うてやがてかなしき鵜舟かな(芭蕉)。
亢龍悔いあり(易経乾為天)。
北中米では、約3000年前から、重さ7kgほどのゴムボールを用いた集団競技が、テオティワカン、アステカ、マヤなどのメソアメリカ文化圏で盛んに行われていて、アステカでは「ウラマリツリ」、マヤでは「ポク・タ・ポク」または「ピッツ」などと呼ばれていましたが、今は衰亡しました。
集団スポーツゲームは、軍事訓練と縁が深いですが、本気度が上がってくると最後は本当に命のやり取りをする戦争を連想することになるのでしょう。
それでも神様はやさしいから、終わりの前にスーパースターを出してくるものだと思います。野球の沢村賞の沢村栄治投手は、1934年の日米野球でその快速球でベーブルースやルー・ゲーリックらを圧倒しましたが、戦死しました。沢村栄治は二刀流ではありませんでした。
なおスポーツのスーパースターやヒーローがどんなに人格者であっても、それは悟りとは関係ありません。