◎『2.天国にあまりひっかからないこと』
原始仏典では、彼岸とはニルヴァーナのこと。天国は『天』などとして登場。地獄の住人は多いが天国の住人は少ないなどとは出てくるが、天国そのものが問題だという表現は出てこない。
以下は『ブッダのことば』からの引用だが、『快美な事物に対する欲望』とは、天国のことである。人間は快いものをまず求めるようにできているが、釈迦は、それすらも除き去ることが求められると踏み込んでいる。
『九、 学生ヘーマカの質問
1085 聖者さまあなたは、妄執を滅しつくす法をわたくしにお説きください。それを知って、よく気をつけて行い、世間の執著を乗り超えましょう。」
1086 (ブッダが答えた)、「ヘーマカよ。この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲望や貪りを除き去ることが、不滅のニルヴァーナの境地である。
1087 このことをよく知って、よく気をつけ、現世において全く煩いを離れた人々は、常に安らぎに帰している。世間の執著を乗り超えているのである」と。
ブッダのことば/ 中村 元訳/ 岩波文庫P229から引用』
人間は、善いことをして悪いことをせず、いわば天国的な生き方を通じて求道の修行を積むが、ニルヴァーナ到達以後の生き方も善いことをして、悪いことをしないという天国的な生き方である。
そこでニルヴァーナに入る前段で、天国にすらも執着しないことが求められるという、まったく無理無茶なクリアすべき条件が提示される。
つまり『2.天国にあまりひっかからないこと』とは、ニルヴァーナに入る前段以降に発生するハードルと言えるが、一貫した論理では割り切れない事象のため、事前に承知しておく事柄なのだろうと思う。善のベクトルは常に、自分を自分をなくしていくという方向性である。