◎ジェイド・タブレット-07-03
◎天国まで-03
◎準備ができているかどうか
悪には、不快、苦しい、つらいなどの天国サイドのアンチとなるもの以外に、「そもそも日常と認識している世界全体が足元から揺るがされるもの」の2種類があると考えざるを得ない。
悪とは、自分を拡大、膨張させる方向の行動。これに対して善とは自分をなるべくなくしていく方向。
すなわち善か悪かは自分があることが前提であって、第五身体以前の認識方式。
つまり善か悪かという基準は、見ている自分を残している段階での議論なのである。神はそこにはなく一歩先にいる。
そのように見ると、「そもそも日常と認識している世界全体が足元から揺るがされるもの」というイヴェントは、人間にとって不都合な事件だから、悪には見えるが、何か別種のものと考えざるを得ないように思う。
4.【悪魔との対峙は直ちに起こるか】
以上1~3までの理屈がわかった場合、釈迦やイエスのように悪魔との対峙が直ちに起こるのだろうか。
「天国的な方向に向かおうとする努力をしている人に悪魔は必ず現れる」とダンテス・ダイジは語っている。つまり天国的な方向を極めようとする人がある一定レベルに達すると、なぜか悪魔は現れるのだろう。
このように神仏への道は理不尽、不条理の先にあることはわかるが、最後の最後に悪魔が登場してくる理由は、それを受け容れることは容易ではないからなのだろうと思う。
この辺が、原理は単純だが、それを人間が現実に受け入れるのは、なまなかなことではないということでもある。
その原理はあまりにも平易だが、それを人間が現実に受け入れるとなると、きわめて受け入れがたい。よって、その原理のポイントは、知的に理解することではなく、体験なのだろうと思われる。自分の存在そのものを揺るがされるそのエマージェンシーな事態。
だからこそ、この天国と地獄双方に直面しかけることを人生の裂け目などと大仰に呼ぶ。
世界の裂け目とは、日常生活が安定しているものだという安心感、先入観が足元から崩れおち、心理的混乱や恐怖・怯えている状態で、異様なものを見ている状態とでも言おうか。入り口は心理だが、起こっていることは、心理や価値観を超えて、立ち位置としての世界が変わっている。
それは、生と死や、滅びと栄えの両面をカバーしたものが立ち現れるということであり、人間の感覚から言えば不愉快、不都合なあらゆることが入ってくる。見たくないものを見るということでもある。
天国を極めようとして神の出現の期待にうち震えていたら、意外や悪魔が登場するというのは、自分自身に出会うということなのだろう。曰く、自分自身に出会うことほど恐ろしいものはない、と。
不愉快、不都合なことは、聖なる宗教シーンでは、真実の一つのアスペクトではあるが、大衆の不興をかうことにもなるので、あまり前面に出てくることはなかった。
聖書でヨブ記はそういう観点から当惑されつつ読まれてきた。古事記では、スサノオの冥界探訪のところがそれにあたる。
逆に自分に準備ができていないならば、それは起こらないということでもある。